○動機という病

ポールアルテの「死が招く」(ISBN:4150017328)を読んでいて思ったのは、本邦における本格推理物の受容のされ方。
「死が招く」の解説で二階堂黎人が、新本格と呼ばれる日本のミステリー作家とポールアルテの趣味的な共時性を指摘している。だが、私が気になったのはむしろ何故、新本格作家はポールアルテのようにあっさりした本格物が書けないのかということ。
まったくの当てずっぽう仮説を吹いてみるが、日本において「誰が殺したか」や「どうやって殺したか」の本格的な主題よりも、「なぜ殺したか」という動機に読者が気をとられる傾向があるのではないか。
ハードディスクレコーダーが欲しい。土曜サスペンスで、断崖絶壁で犯人達が朗々と語るその告白のどっさりまとめ録りすれば、告白の構造がみえてくるんじゃないか。
ワイドショーにおけるセンセーショナルな犯罪報道も、動機や犯人の生い立ちなど、犯人の身辺情報にフォーカスされている。これは金田一耕助の悪い影響ともいえる。また、心神喪失耗弱云々も動機の変型だろう。
結果には必ず原因があるように、犯行にも動機があるということか。確かに動機がないと余計に怖い感じはする。
新本格派の抱える問題とは、トリックの他に「ふさわしい動機」の落としどころを探らないとならない点だと思う。そして、本格推理の知的っぽさは、ワイドショー的な「分かりやすい動機」によって台無しになってしまうわけだ。ま、その辺が作家の腕の見せ所だと言ってしまえばそうなのかもしれないが。けれど本格推理物の密室トリックの謎を究明が脇に追いやられるなんて、本末転倒もいいところだと恨み節も呟きたい。
もう一度土曜サスペンスの断崖絶壁に戻ると、犯人の自白というのはどれほど信用たるものか。