椹木野衣著「黒い太陽と赤いカニ」(中央公論新社 ISBN:4120034712)を読了。

suzakkuさんの4/9コメントより引用。
http://d.hatena.ne.jp/yasulog/20040409#c

岡本太郎は、パリ仕込みの教養でそれを熟知した上で、ジョーモンで爆発な、独自な芸術観を世に問うた。

suzakkuさんの彗眼指摘に教えらつつ、「黒い太陽と赤いカニ」を読了。椹木のいう、脳でなく「目」と、カギ括弧の「目」は、太郎のパリ仕込みの教養ごしの目を指す模様。だから、脳は、どこまでも平坦なモダンなロゴス空間の意味。太郎の「目」は、民族学的(今風にいうなら「帝国」的な)フィルターの影響下にあるということ。しかしながら太郎はその民族学的な帝国的な視線が、フィクションであることを重々承知していたと椹木は言いたいのだ。その伝でいけば、太郎の「縄文」は明らかにフィクションということ。
太郎はそのフィクションとしての「古代美」とこれまた幻想でしかない「人類の未来や進歩」対置し、大阪万博という空前絶後の大枚をはたいた国家イベントにおいて、「爆発」させたということのようだ。
太郎の「縄文」に柳宗悦の「民藝」風の嫌な予感を感じていたのだが、柳のガーリーな気分で「朝鮮の陶器ステキ」と言ってしまうのと、太郎の「縄文」礼賛はやっぱ違うよう。太郎は素材として「縄文」を発見した。