椹木野衣著「黒い太陽と赤いカニ」(中央公論新社 ISBN:4120034712)を読了。

椹木は、太郎の手法を「対極主義」と呼ぶ。
「対極主義」とは何か?「具象」と「抽象」、「前衛」と「お笑い」、「漫画」と「絵画」、「原始」と「未来」といった対立する概念をモチーフとして作中でぶつける、そのスタイルを指すのだろう。「爆発」とは、そのような太郎のスタイルから生み出される、革新的なエネルギーと椹木は了解しているようだ。以下33頁より引用。

敗戦後日本とは、「芸術」を当然の営みと考え、あらためて問う必要のない西洋とは、根本的に条件の異なる場であった。そのような場で、なんの疑問もなく、「作家」や「作品」然としてあることに、本質的な欺瞞はないか。
 むしろ、すべてを「客体」として見なすことによって一度は判断を保留し、「作家」や「作品」や「近代」や「前衛」や「啓蒙」といった、芸術をなすうえで欠かすことのできない概念同士が、日本の土壌で生み出す矛盾を、冷静に観察すること。そして、自らも矛盾となってそれらをぶつけあわせ、そこから軋轢や相克といった変革のエネルギーを導く「ドラマ」を実践すること。それこそが、敗戦後において唯一、リアルな「芸術」の姿でないのか。

椹木が岡本太郎論を語る動機を率直に述べていてある意味ビックリする。
だが、この馬鹿正直な告白は、太郎の「対極主義」がそれだけ理由で依拠するものではないと暗にほのめかしているのだ。そういう意味では全然正直ではない。椹木は太郎の「対極主義」的な着想の源をバタイユとの出会いに求める。以下椹木による岡本太郎「わが友ージュルジュ・バタイユ」より一部を孫引用(55頁)。

「右の神聖と左の神聖」その弁証法である。右の神聖は既成勢力であり、公認された諸権力である。ブルジョア的な道徳、無効になった宗教、すべてがこれだ。
 それをおかすものが左の神聖である。だから右にとって左の神聖は常に破壊者、犯罪者、加害者だ。

「右の神聖」と「左の神聖」、その対立の弁証法(?)こそが太郎の「対極主義」の故郷だ、とい言いたいようだ。この伝でいくと、「ヘーゲル」、「エドワード・モース」、「脳」、「近代日本」は「右」ということだろう。自動的に、「バタイユ」、「マルセル・モース」、「目」、「原始日本」は「左」。
縄文土器は「脳」と「目」の衝突、爆発した閃光だったということか。
アクロバティックな論理展開は筆者の十八番。面白いけどくらくらする。