椹木野衣著「黒い太陽と赤いカニ」(中央公論新社 ISBN:4120034712)読み中。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 」で、「目を盗みやがったなっ」という台詞がある。盗んだのは「笑い男」、盗まれて先の台詞を吐くのはバトー。「目を盗む」とは他人の電脳に侵入し、当人が見えているはずの風景にフィルターを施すことを指す(たぶん)。盗み方にも色々あるようで、「目を盗む」目的が視覚情報の人為的操作による記憶の改ざんの場合もあるようだ。そして、「目を盗まれ」たままであること、記憶を改ざんされ、それと気づかずにやり過ごしてしまうことはアニメのお話に限ったものではない。
椹木野衣の「黒い太陽と赤いカニ」を読もうと思ったのは、彼が岡本太郎の「縄文」礼賛をどう捉えているか知りたかったから。
第二次大戦勃発によりパリを離れざるをえなった岡本太郎が帰国で目の当たりにしたのは、中国や朝鮮の模倣を奉った「日本の伝統美」だった、と椹木は言う。そして縄文土器(=cord marked pottery)はエドワード・モースによって名付けられたが、それはあくまで考古学上の分類で、その美が「発見」は太郎によってなされた、と綴る。以下105頁より引用。

しかも、モースが日本にもたらした考古学的思考は、「縄文土器」を科学的に調査し、編年し、分類することに固執するあまり、近代以前の時代の趣味的な日本人がつかまえていたはずの、その造形上の異様さ、迫力、凄みを脳でなく「目」で捉えることを、完全に忘れてしまった。そして、それがふたたび、人々のこころに浮かび上がるためには、岡本太郎による「縄文土器論」を待つほかなかったのである。

太郎にとって日本的スノビズム、力ない模倣を「日本の伝統」と奉る態度と闘う拠り所が「縄文」だったという椹木の見解はうなずける。ただ、太郎の「目」、「縄文」の美を発見した彼の感性に手放しに特権を与えることには馴染めない。パリ帰りの芸術家の感性もまた、日本的スノビズムとは違う別のフィルターがかかっていたはず(わたしのゴーストがそう囁くの)。その点において椹木は、太郎の肩を持ちすぎ。フィクションとしては面白いがちょっと不公平だ。