トルストイ作品がキーラの美貌と大発明的演出で蘇る!


◇映画「アンナ・カレーニナ」を観た。
ロシアの文豪トルストイ原作の不倫もの。キーラ・ナイトレーが不倫に走り、人生の歯車がぶっ壊れたアンナを妙演。相手役アーロン·テイラー·ジョンソンもイケメン将校役がハマっていた。坊々的な線の細さというアーロン自身のキャラが役柄に深みを加えたっぽい。アーロン、このひと「キック・アス」のヘタレ主人公役だね。全然印象が違う。あ、今回も将校も結果的にはヘタレなのか。

社交界こそ人生の檜舞台!パーティー会場から退出する=舞台上の天井梁へ上る的な当時の帝政ロシア社会を丸ごと舞台装置に見立てた演出は斬新。
高貴な人々。いわゆる貴族階層は「見る/見られる」という相関関係のなかに暮らしている。舞台装置とい見立てはその意図だ。挨拶や踊りの所作もこうした相関関係を形成する道具だ。
要するに、格式張った挨拶や所産のやり取りの連続が貴族を貴族たらしめている。当然、恍惚や嫉妬などエモーションの爆発は忌避される。様式から外れすぎているから。
アンナの不貞は不貞故に忌避されるんじゃなく、奔放な魂の雄叫びだから忌避されるのだ。道徳とか宗教とか法律とかそういうもので、禁止したりタブー化するというのは実は魂を縛ろうとする社会側の欲求なのだ。

不倫相手とも縁を切れない。かといって息子への執着も捨てきれない。で、将校に別のオンナの影がないか詮索し、かんしゃくを起こす。アンナはハチャメチャだ。無茶苦茶に自由だ。ある男と目があった瞬間、魂が雄叫びをあげた女がいて、彼女は社会のルールをうっちゃり魂の声基準で生きることにした。それがアンナなんだ。けれど彼女も将校も愛を突き通すには社会が染み付いていた。

アンナにとっての不幸は、不倫によって社会から絶縁されたことでなく、最後の最後で社会側に心が傾いたから。魂の声に従いきれなかったから。脆く、はかない愛。ゆえに愛は美しい。いや、強靭で不格好な愛を振る回すヤカラの社会のぶっ壊しっぷりもまた美しいかもしれない。その意味でアンナはその先駆けだったかも。
監督のジョー・ライトは文芸作品を上手く纏める才能があるのか。「プライドと偏見」、「つぐない」も見てみたい。と同時に、何故ジョー・ライトは「ハンナ」のようなオンナ版ジェイソン・ボーンを撮ったのか?という謎はのこる。