高島俊男著「お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ」感想。


◇「お言葉ですが…別巻3」に、白川静白川静藤堂明保の論争についての
コラムがあると知り、収録の「両雄倶には立たず 白川静藤堂明保の「論争」」を読んでみた。
高島さんによると、白川反論の自説弁護は、藤堂を漢字はことばの音を表したもの派と誤解したものだったようだ。

高島さんの推測では、おそらく藤堂は、白川さんの反論読んで、ああこりゃアカンわ、ぜんぜんワシの言ってること理解できとらんと匙投げてしまい、反論に再反論する失せた、論争は盛り上がることなく白川さんの反論のみで終わってしまった模様。

まあ、白川さんといえば弁護士事務所住込み小僧から苦学のすえ大学教授にまでなった人。だからそんじょそこらのド根性じゃない。超怒級の根性の主。漢字に命懸けてたご仁。
彼を相手どって戦争おっ始めるとなれば、覚悟というか、しこたまの胆力がいる。要するに、白川静は論争相手として面倒クサい。藤堂も結局そう判断したっぽい。

けど僕は、やはり藤堂は懇々と白川学説のどこがダメかを説明する責任はあったと思う。途中で匙投げちゃうのなら、端っから書評引き受けなければイイのだから。白川が漢字の泰斗のように持ち上げられ、その説が出版界やテレビでも大きく幅を利かせているのは、白川当人の馬力もさることながら、藤堂ら中国文学学者の不作為のせいだと思う。

昭和四十年代の半ば。藤堂明保(当時東大文学部で中国語学担当)が岩波の「文学」に書いた白川著「漢字」評が論争のきっかけのよう。内容は「根本的にダメ!」と全否定だったとか。
むろん著者の白川はこの評に怒り、藤堂評を載せた岩波の「文学」誌上で反論。

コレが白川静藤堂明保の論争の全容とか。ボクはこのふたりの論争、なんとなく聞き知っていたから、泥試合を想像していたが案外あっさり終わったみたい。

さて白川の反論だけど、まず書評としての礼儀がなってない!書評なら褒めろやボケ!的なものだったらしい。まあ、藤堂にオマエ零点言われたから、オマエの評も零点じゃと言い返したという塩梅か。

高島さんによると、白川反論の自説弁護は、藤堂を漢字はことばの音を表したもの派と誤解したものだったようだ。

なんで二人の「論争」は噛み合なかったのか?白川は、ひとつひとつの漢字のもつ意味は、漢字の図柄が表現しているという立場。かたや藤堂は、漢字に意味があるのでなく、ことばの方に意味があり、漢字はそれをあらわすための道具でしかない。漢字の図柄は(ことばの)意味の一例にすぎない、というスタンス。

図柄が漢字の意味そのものだという自説を否定された白川さんは、藤堂ってやつは、漢字が人の口からでる音を直接うつしとったもの的な「音義説」派と把握したみたい。

独学のせいで変な思い込みというかクセが災いしたかもしれない。藤堂の著作とか一冊くらい読んでみたらよかったものを、白川は怒り大爆発で反論を書いちゃったという感じだろう。

リア充。若い学生が電車のなかで誰それがリア充だ、ギャハハと笑っているのを出くわすことがシバシバあった。カネ、容姿、異性交遊において不自由ない状態やそうした連中を指す若者ことば。やっかみ半分だが、奴らには無い伸びしろが俺たちにはある!的なねじ曲がった優越感がニオう。

白川を書評でクソみそにこき下ろしながら、論争に腰が退けてしまうのは「白川、リア充だ」って嗤うのと変わらない。


お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ
お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ高島 俊男

連合出版 2010-05
売り上げランキング : 303432


Amazonで詳しく見る
by G-Tools