リチャード・リンクレイター監督「僕と彼女とオーソン・ウェルズ」感想。
(ネタバレを含みます。観賞後にお読みになることをお勧めします)



◇ほろ苦青春映画。「オーソン版「ジュリアス・シーザー」初演にこぎ着けるまでを描きつつ、その舞台裏で殺されたもう一人の「シーザー」を描いたもの。北野武の「キッズ・リターン」を彷彿。
原作は小説。1930年代のニューヨーク、気鋭の演出家兼俳優として頭角中のオーソン・ウェルズ。彼の劇団で役者デビューの幸運を掴んだ高校生男子が主人公の「Me and Orson Welles」。
リチャード(ザック・エフロン)は、役者志望の高校生。若さゆえの自己アピールがオーソンの眼に留まり、「ジュリアス・シーザー」のブルータスの従者役に急所抜擢される。

リチャードが恋する女性ソニヤ(クレア・デインズ)は、オーソン劇団の裏方助手。気があるのはリチャードばかりでない。劇団の皆が彼女に心を寄せている。
リチャードが従者役で舞い上がっているのに対し、ソニアはオーソンもキャリアのワンステップと考えている。彼女がリチャードに「対外的には準劇団員で週25ド貰っていると言うのよ」と告げるのは実際貰えないから。彼女自身もカネのためにここで働いているんじゃないという野心を伺わせる。
彼女の野心は具体的。デヴィッド・O・セルズニック。映画界の大物プロデューサーである彼のお眼鏡にかなうことだ。当時のセルズニックは「風と共に去り」準備中で、ソニアはそれをきっかけに(スカーレット・オハラ役!?)キャリア箔付けを算段しているのだ。

従者役という端役を貰っただけなのに浮かれるリチャードはウブすぎる。ソニアへの好意は、リチャードの世間全体への無防備さ暗示させる。ソニアと一夜をともにしたことで、リチャードのしソニアへの想いは妄信に変わる。
すべてが彼の前途を祝福していると疑わないリチャード。彼は俳優仲間に唆されて、オーソン相手に恋の鞘当て事件を起こす。オーソンも自己顕示欲の塊だ、売られた喧嘩は買わないわけがない。

ソニアは誰の女でもない。彼女は自信に満ちあふれる才能ある男となら寝るも厭わない。美貌の彼女は大人社会の具現。自身のためになるならハゲだろうがデブだろが手を組むが、そうでないなら縁を切る。世知辛いさを体現したミューズというあんばい。
彼女基準で劇団の俳優たちを眺めると、彼らもオーソンを利用している連中なのだと知れる。俳優陣はオーソンの芝居に出ることは俳優キャリアとしてプラスだと踏んでいる。たとえ自己顕示欲モンスターの下衆野郎でも、俳優を輝かせる才能豊かな演出家であることは間違いないのだから。

一方のオーソン(クリスチャン・マッケイ)。彼は時間的にギリギリな状態で芝居の仕上げに取り組みつつ、「初演前の災難」を気にかけていた。初演前にアクシデントがある芝居は大当たりするというジンクスがあるらしい。彼はそれを信じていた。
そんな折、恋の鞘当て事件で従者役なんかこっちからゴメンだとリチャードがキレた。初演前の災難発生。ジンクスきたー!!とオーソンは心のなかでガッツポーズしたかもしれん。むろん野心ある俳優陣も喝采しただろう。これで芝居は成功する!と。

ラストの演劇史の授業シーン。リチャードがシーザーの台詞を暗唱する。教室でクラスメートや先生を観客に、語るリチャードの長台詞には、アタマで覚えただけのものでない気迫がある。リチャードとシーザーが共鳴しあっている感じ。
教室の窓の外を眺めるとなく眺めていたリチャード。別れぎのキスを反芻していたか。アレでリチャードは知ったかもしれない。世の中のすべてが自分の前途を祝福しているわけじゃない、と。
鬼気迫る台詞暗唱は挫折の副産物だ。いや、挫折のほうがオマケか。だとすれば、彼女はやはりミューズだろう。ブルータスでなく。


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