○100均棚と想像力 ー 片岡義男著「木曜日を左に曲がる」雑感。


◇小説を読む。それは「小説家」というフィルター越しに現実世界眺める行為かのかもしれない。小説家の職能、存在意義をそんなふうに漠然と思っていた。それが最近、絶対そうだと確信に変わった。
確信のきっかっけは、片岡義男という書き手の存在だ。
ノンポリなたたずまい、アーバン感満載ライフスタイル、女性への強い信頼。角川文庫から大量に出回った片岡短編集はバブル前夜の80年代に一世風靡した。
一世風靡も束の間だった。経済的くだり坂を下降するというフェイズある今日、あの赤い背表紙の片岡短編集たちは、いまやブックオフの100円棚へ陳列という処遇にあまんじている。
大好きな片岡義男の作品が100円棚に陳列されると状況は、ボクだけ分かっている的優越感に浸れる一方、侘しさと義憤をないまぜにした奇妙な感情をボクに抱かせる。
なぜ100円で売られるのか?
描かれたライフスタイルが、今日リアルな憧れとズレたせいだ、とボクは推測する。そして、この推測を足がかりにさらに持論を述べるなら、バブル絶頂期からパブル崩壊を経て今現在の日本とは、80年代中頃まで有効であった憧れの対象、つまり快適な消費社会というもの見事に庶民化さたという見解に行き着く。
リストラと安い労働力を海外に求める経営努力は、片岡短編が描くライフスタイルを、サイゼリヤや100均一が担うまでに過激に大衆化させたのだ。
「木曜日を左に曲がる」。左右社という新しい出版社が刊行した片岡の最新短編集だ。この国をとりまく経済環境の激変とその対応によって生み出された安売りシステムは、片岡短編のヒロインたちにとって天変地異級の試練であることは想像にかたくない。別の見方をすれば、今日的日本とは片岡義男という小説家にとっての正念場であることを意味する。自身が紡いできた世界が無効になるほどの日本という環境の激変に、一体全体片岡はどのような回答、つまり新たな彼女たちの物語を生み出しうるだろうかとボクは「木曜日に〜」を手にとった。
結論からいえば、野球をしているはずだったのに、途中からアメフトになっていたという激震的なシステム変更に、片岡義男は見事アジャストしてみせた。
片岡短編の例に漏れず、例なるヒロインたちの、淡々とした日常という物語を本当らしく空想するという小説作法をサイゼリヤ化し今日的環境を基礎に易々と組んでみせた。むろん、おはなしに100円ショップやドンキが出てくるわけではない。が、日常にもサイゼリヤ化が押し寄せている環境で彼女たちも暮らしているという意味で、短編集「木曜日を左に曲がる」は最新作に相応しい仕上がりだ。また同時に、彼女たちが未来への指標であることを失っていない。憧れの対象としての片岡短編ヒロインは、やさぐれもせず、かといって夢見勝ちでもなく、アノ感じでまさに健在なのだ。しかも。。。いやこれ以上はハナシが長くなるから別の機会にゆずろう。
つまるところ、片岡義男は流行作家ではなかった。流行作家は時代の寵児であり、徒花でもある。なんらかの影響で氷河期となれば、それでイッカンの終わり、お陀仏だ。
ギリシア経済が破綻しようが、投資銘柄としてのアメリカ国債の格付けが更に引き下げらようが、ガストで食中毒騒ぎが起きようが片岡短編のヒロインはその魅力を損なわない。彼女たちは揺るぎない存在だ。彼女たちの物語に奉仕することは、「揺るぎない」とか「不変」といった触れることのできない観念を女性の姿に具現化する作業だ。その意味で片岡短編ヒロインは遍在する。
だから片岡義男経は常に今を注視する。遍在する彼女を掴むために。経済環境の激変、それに伴う様々なジャンルにおける安売りショップの台頭、映画産業の衰退とVシネという展開、あるいはモバゲー的動向にもたぶん。そうした今日的風景はフィクショナルな彼女たちを本当らしくカタチづくる素材の可能性を秘めている。


木曜日を左に曲がる
木曜日を左に曲がる片岡 義男

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