○中年ランナーの愉悦


走りがブーム。TBSラジオの「荒川強啓のデイキャッチ」を聴いていたら、荒川さんがそんなコトを喋っていた。
国がデブをメタボと言い換え、自己管理できない能無しと焚き付けたのが功を奏したのか、走りはいつの間にかオシャレでイケてる趣味タシナミとなりつつあるようだ。
ふだん連中の姿は日常の街並、景色に同化しているため目立たないが、改めて街を眺めてみると、ジョギングに興じる輩が案外わんさかでビックリする。
「走り=ファッショナブル」。
走りに対するポジティブなイメージは、いつの間にか確固たるものになっている。アシックス、ニューバランスなど靴メーカーが左ウチワで札束数えている絵が浮かぶようだ。iPhoneのアップルとナイキによる走りのためのツールもなんか格好良さげで、走り市場は活況を呈している。というか、カウチポテト族の勇者として一目置かれたボクですら走りだしているのだから、これは本格的に走りブームの絶頂とみるべきなんだろう。
一体全体なぜ猫もシャクシも走り出したのか?
走りブームのその背景。ダイエットだとかオシャレに走ってモテたいとか、手段として走り始めたもののそのうち走ることが目的化し、そうした走りに憑かれた人の増大が今のブームの要因ではないかと、くだんの荒川さんは推理していた。
全くもって図星だと思った。カウチポテト族の勇者のひとりとしてココに宣言するが、走ること自体楽しいのだ。
けど、それだけではない。走りはやは減量手段でもある。体重計と走りの因果関係というか、走りが効果として体重計に反映されるコトもまた楽しいのだ。
というか、走りは楽しさに満ちあふれている。だからこそ皆こぞって皇居とか近所の公園とかをぐるぐる走り回っているのだ。
とはいっても、中年であるボクの身体は若いときと違ってそれなりにガタがきている。時折脚のつけねや足首が痛かったりする。コンディションが日によってまちまちで若いときのような馬力に任せて走るわけには行かない。
で、そんなときボクは、身体の声に耳をそばだてながら走りを調節する。
そう、中年の走りのなかで最大の醍醐味は自分のからだと相談しながら走る「自己演出」だと思う。つまり走ることの魅力は、ナルシズムの発散だと思う。歌広で歌うより安上がりだ。
走りながらの軽い自己陶酔、ボクはこれを「プロフェッショナルごっこ」と呼んでいる。