M-1雑感 ー 漫才を背負って立つこと


師走の風物詩になった感のあるM-1、26日の昨晩その幕を閉じた。M-1が終わった今、来年以降迎える年の瀬の自分、その情景をボクは上手く想い描くことが出来ない。要するにボクにとってM-1は年末恒例のスペシャル特別なイベントだった。
やや唐突めいた終焉にアレコレ勘ぐりたくなる。が、一昨日サンタ装束でチキンをヤケクソで売るファミマの横切ったボクは、
M−1とは一体何だったのか?
という声を確かに聴いた。根源的な問いの声だ。
M−1とは一体何だったのか?
だから昨晩の観戦中もM-1M-1足らしめている何かについて考えた。
結論から言えば、M-1とは松本人志なのだ。
先進性。
M1-における彼の漫才評価ポイントはそれに尽きる。それは松本自身が漫才の可能性を開拓しきたパイオニアとしての自負に裏打ちされるものだと思う。
笑い飯。もはやM-1レギューラーともいうべきこのコンビだが、それは彼らの漫才が新しい笑いの可能性に満ち満ちているためだろう。
今までに無いスタイル、それこそM−1が追求するものだった。逆に言えば、M−1、つまり松本人志にとってネタそのものはさほど重要でなかったのかもしれない。要するにネタが爆発ためのフォーマットとしてのコンビの有り様が問われていたのではないか。パーソナリティーというか、まさに演者の器が競われていたのではないか。
そういう意味でいまだまったく理解できないのはパンクブーブーの決勝ネタの凡庸なツマラナさだ。
アレは一体なんだったのか。さらに言えば「去年できなかったガッツポーズをとりたい」というパンク黒瀬のコメント、果たしてM-1王者に相応しいトンチだったろうか。チンポジを云々するムキもあるが、M-1史上最大の大ポカは「ガッツポーズとりたい」発言だろう。芸人コメントとして不可解すぎる。
謎といえば、思わず本音が漏れたかのような松本人志の「最後(笑い飯に)獲らせてあげたかった」発言も捨ておけないものだ。
とは言え、アンフェアだ!と抗議するつもりなどボクはサラサラない。
というか、まんま真に受けるのも芸がない。
実際問題、全然依怙贔屓がないわけではないだろう。けども、それでも黒を白とは言い包める真似はしないはずだ。妥協なきお笑いの開拓者たる松本の沽券に関わることだ。だから発言の意図は、「M-1終わるし、君らで〆るのが綺麗だからそうする。けど今日ネタ、出来はどんなもんかネ」というニュアンスだったのではないか。
だからそういう意味でボクは、2010年のM-1王座の笑い飯を功労賞的という意見に賛同できない。アレは完全にWボケという笑い飯スタイルへの先行投資だ。つまり松ちゃんは、最後の最後で笑い飯に漫才前途を賭け、それをもってM-1の幕引きとしたのだと思う。