みちくさ市で買う  ー   堀井憲一郎「落語論」感想


さいきんラジオで堀井憲一郎さが落語についてしゃべったりするの聴いていた。そんな矢先、ぷらっと出掛けた鬼子母神商店街の古本市イベント「みちくさ市」の箱のなかに、「落語論」を発見。購入した次第。
落語の付き合いは、もっぱらCDの録音ものだ。志ん生やら可楽、枝雀やらをパソコンに取り込み、それをiPodに入れて通勤中あるいは夕飯どきに聴くというのが、ボク流。
好きな落語家を訊かれれば、真っ先に春風亭柳好を挙げたい。あと、昇太もイイな。演目で好きなのは「岸柳島」。ハナシとしてよく出来ていると思うから。
まあ、そんな感じで人情噺にほろりとしたり、変なリズムにズッコケたり、柳好が今生きていたら、さんまと芸風かぶってしまうかなぁと考えてみたりと、ボクはボクなりに落語を楽しんでいる。けれど、本書の著者堀井さんから言わせれば、ボクなどは落語を聴かずに落語を語る半可通の大バカ野郎というコトになりそうだ。
 堀井憲一郎「落語論」。落語にまつわる事柄を論と称して傍若無人に暴れまわるコラム集。
 既存の落語鑑賞ガイド本で語られてきた落語観なるものが主観的なマヤカシであるというスタンスで、「上手/下手」論、「間」の良し悪し論などの巷に跋扈する落語俗説をバシバシと斬るまくる風で痛快この上ない。
しかし、ギャハハと笑ってばかりはいられない。なぜなら、堀井の舌鋒の切っ先は、「イナカ者には落語はわからん、一生かかっても無理!」とこっちにむかってくるからだ。
落語はナマで聴け!
DVDもカセットもCDも全然落語を映しとれてない半端なメディアだ、と堀井さんは断言してはばからない。ちょっと面食らう。あと、オレの落語スタイルを半端だと言われてるようで気分も悪い。気分も悪いが、なるほど道理だと思わないわけでもない。
例えば打ち上げ花火。打ち上げ花火をテレビ中継で見たりしないし、ましてやDVDで観賞するなんてこともない。落語もそれと同じで体感するものだというわけだ。たしかに在京キー局は、花火に淡白だ。
堀井さんは落語を弱い芸だという。演者と聴衆の呼吸があってハナシに血が通い、その場が落語磁場に包まれるのとかそういうことを言っている。そういうフワフワした弱い芸の形式だからというか、落語という芸の本質として、ライブ聴く他、落語の味わうすべはない、というわけだ。うむー。
とまあ、そんなアンバイで、とにかく読者を選ぶ。したたかハードルの高い本に間違いない。落語の入門書、寄席案内本ってのは安鶴や江國滋正岡容というメンツが綿々と書いてきた。しかしこの本は、そんなのクソだよ、と蹴散すニュアンスがそこかしこにある。なんかその辺は痛快でおもしろい。けど、堀井さん落語論のバックボーンには、
「田舎もんは落語は分からん」
という乱暴なテーゼがどっしりと胡座をかいている。コレは落語入門書ならぬ、落語「閉門書」だね。田舎もんは帰れとばかりに石投げて門を閉じちゃう。いやぁーちょっと厄介な本だ、面白いけど、メンドクサイ。メンド面白いっつーかね。オツな都会人の道は大変だね。
嫉妬。唐突だけど、コレはこの本の肝かもと思うので、触れとく。
落語を聴き終わった後、いまの落語について語りたいという気分を誘発する噺家がいるという。立川談志立川志の輔柳家喬太郎。桂小三治春風亭昇太などなどの面々の高座でそういう気分が誘発されるという。
今聴いた落語について語りたいという衝動の源を、堀井さんは嫉妬だという。落語ってのは、見た目でいえば、独りのオッサン(さいきんはおばさんも)座布団にすわって喋るという、なんともココロモトナイ形式。こうした弱い形式に芯を持たせるのが、演者の芸だということか。

落語磁場を召還するには、依り代が必要なのだ。依り代は噺家。聴衆は、噺家に噺をおろす神主みたいものなのかもしれない。


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