○さよなら 円楽 

朝テレビをつけると、円楽の追悼を民放各局でやっていた。どのチャンネルかは忘れたが、円楽が引退を決断する高座を追ったVTRを流しているやつをザッピング止めて観た。
そのなかの稽古場面。当人は往時の自分のDVDをテレビモニターに大映しにし、その前に座っておさらいするという感じなのだが、いささか変な感じがした。
モニターに映るのが円生だったり、文楽だったりの名人諸先輩なら、そう変でもないはず。つまり変な感じの根本はやはり、自分のDVDを流すあたりなのだ。
そうした稽古シーンからも円楽の高座に望む姿勢が分かる。もっと言えば、老いと芸というものに対する当人の理解をはかることが出来ると思う。
「芸人にはピークがあり、頂点に登えば後は下るだけ」
有り体にいえば、それが円楽の胸中にあったと察する。おそらく自身のDVD相手に稽古をつけるというのは、ピーク時にどれだけ戻せるかというトレーニングなのだ。
実際問題、不惑という年齢にさしかかるも未だ煩悩になやまされる唐変木なボクに、齢七十の境地は確かに分からない。けれど、円楽師匠よ、歳相応の芸というか、四十代、五十代では思いもよらなかった「芝浜」や「文七元結」が七十年の人生でふと見えてくることもあったんじゃないの?
お茶の間に落語を広めた功労者と讃えるムキもあるけれど、ボクはあんたの呂律回らなくても落語やり続ける姿みたっかたな。