クリント・イーストウッド監督「グラン・トリノ」感想
*注意:以下の感想は映画の筋にふれた箇所があるので、未見の方は本作を観賞後、お読み頂くことをオススメします。


作中ひんぱんにコワルスキー(イーストウッド)の芝刈り作業シーンが差し込まれます。これは彼の家庭での居場所を暗示しています。また、タオ(ビー・ヴァン)の意中の娘ユアに職業を訊かれたコワルスキーは、
「なんでも直すんだ」
というふうに応えます。これはコワルスキーの自己認識の表明だと思います。
家具、電化製品、庭や外壁など家庭における一切合切を見た目も新品同様で機能的にも快適さを維持すること、それがウォルト・コワルスキーという男の生き方でした。
独りぼっちになった我が家はコワルスキーにとって、妻の仏壇のようなものです。惰性的に家メンテ仕事に身を委ねるコワルスキー。彼は家メント仕事を妻への愛情表現と考えているフシがありますが、妻はそうは見てなかったようです。
あなたの懺悔を聴いてくれと生前奥さんと約束したと押し掛けてくる神父は、まさに亡き妻の代理です。おそらく彼女は夫が何かから目をそらすために家メンテ仕事に没頭しているのだと見ていたのではないかと思います。しかし、コワルスキーは神父を頑として受入れません。
おそれくコワルスキーは妻の生前も、彼女の注文を全部きいていたわけでないのでしょう。家面メンテ仕事を注文されれば、朝飯前でこなしても、他の頼みごとはなかなか首を縦に振らなかったと想像されます。
「なんでも直すんだ」というコワルスキーの自己認識は、妻からすれば、直し作業に没頭することで何かから逃げにみえたのです。そしてそれは図星でした。
敷地を守るために銃を構えるコワルスキーも芝刈りシーン同様に頻繁に出てきます。これは銃も家メンテ仕事のひとつという意味でしょう。もしかすると朝鮮戦争従軍もコワルスキーにすれば、家メンテ仕事の延長だったのかもしれません。家メンテの延長で人を殺してしまった!!そのことがコワルスキーを長年苦しめてきたのだと思います。
タオを根性焼きしたモン族の愚連隊をすぐさまボコりにいくコワルスキー。しかし愚連隊はジジイの威嚇など意に介すことなく、ますます暴力的にタオやタオの家族に襲いかかります。
コワルスキーは、タオファミリーの甚大な被害に呆然とします。コワルスキーにとって暴力も解決の手段でした。しかしその暴力が結果的に取り返しのつかない事態を招いてしまったのです。「なんでも直すんだ」というコワルスキーの自負は木っ端みじん打ち砕かれました。
家メンテの呪縛が解けたコワルスキーはある種の自由を手に入れます。耳を貸さなかった神父の懺悔にも応じます。それはコワルスキーがはじめて得た安息でした。そして、それは本当に守るべき者の発見でもありました。それがタオファミリーでした。