原武史大正天皇」感想その1
(朝日新聞社  ISBN:9784022597632)


明治天皇と皇后・美子(はるこ)は、とんと子宝に恵まれなかった。つまり明治天皇の子は、いずれも側室がもうけたものだった。
13人の子のうち9人が女の子(内親王)で男の子(親王)は4人という内訳だった。そして男子4人中3人が夭折しているから、明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の他に皇太子候補はなかった。このため、この病弱なか弱い明宮が宮中の期待を一身に背負った。
病弱で基礎学力に難があったため、小学校には通わず、家庭教師が五十音などを教えた。しかし、没頭するときとそうでないときのギャップがはげしい、明宮のきまぐれな性格が顕然化し、これが学習の妨げとなった。これは幼くして里子に出され、親による仕付けや家庭とい小さな社会を経験してないための忍耐力、協調性が未熟と思われる。しばらくして明宮は学習院編入したが、集団生活における規則や了解事項に難渋したのか、また健康を損ね始めた。自制は明宮にとってひどく困難なことだったようだ。
それでも明宮はやっとこ初等部を卒業した。だが喜んでる場合ではなかった。明宮を待ち構えていたのは、学習院中等部の過酷な学習カリキュラムだった。体力と根気に課題を抱える明宮はあえなく中退、御所での個人授業に舞い戻った。
この侍講による個人授業の内容は、国学、漢学、洋学(フランス語)だった。明宮に漢学を教えたのは、東京帝大教授で漢学塾二松学舎の創設者・三島中洲だった。
著者の原は、三島の講義録は残ってないが、おそらく明治天皇が習ったような、儒教に基づきたものではなかったと推測し、その理由として、君徳が重視されるために革命が肯定される儒教の政治思想と、血統を重んじる万世一系の思想とは根本的にウマがあわないのだと指摘している。
近代天皇二代目となる明宮が、後に先代と色々比較されその言動に難癖された要因のひとつは、儒教的教養を背景にした君主の威光の欠如だったと思う。彼が仰々しさを嫌い、カジュアルを好んだの背景は、万世一系たる家督を相続しうる坊々の暢気さだったと思われる。


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