佐藤優「獄中記」読み中 その2
(岩波書店 ASIN:4000228706

拘置所内はラジオ放送が流れているらしく、佐藤はそれで外の情報を摂取していたようだ。
弁護団への手紙(2002年10月14日付)で佐藤は、同年同月12日のバリ島で起きた「自爆テロ」について、「テロリストの自己意識の世界では、攻めているのではなく、守っているのです」と彼流の解釈を示している。
このあと佐藤は、今日現実におこっている価値観の相違からくる軋轢をイスラムの教典のうちに読み取り、それをもとに対処をはかろうとするイスラム原理主義者の偏狭かつ恣意的な現実解釈を批判し、それは「国策」であるがゆえに、何がなんでも鈴木宗男とその片腕の佐藤を牢屋にぶち込もうと筋書きを練る検察の精神構造にも相通じると畳み掛ける論理を展開している。
佐藤が指摘するように、イスラム原理主義の「自爆テロ」は、傍目にはテロ攻撃に見えるが、彼らにとっては自身の属する精神的世界を守るための必死かつ当然な防衛行為であったのかもしれない。けれど、その防衛行為は随分破れかぶれな防衛であったと言わざるを得ない。
なにも私はバリ島の自爆テロ事件ついて、正当防衛が成立するか否かをここで問おうというのではない。ただただ、佐藤の論法はなんとも解せない気分が残るのだ。具体的には言えば、原理主義者の精神構造と「国策捜査」の検察のそれを結びつける佐藤の物言いは、何か自分のことを棚に上げた風に聞こえる。
佐藤は本書において、鈴木宗男と自身の行動は「国益」にかなうものだったという主張を繰り返す。が、それがどのような計画であったのかは具体家的に言おうとはしない。それを明かすことも「国益」に反するから、言わないというのがこれまた佐藤の再三に渡る言い草である。
自らがかかわった外交工作の内容については言わないの一点張りで佐藤であるが、本書をつぶさに読めば、鈴木宗男と自身の行動がどのようなものであったかを匂わせるような記述がいくつかある。私は、アフガンにおけるロシアの影響力を担保してやることを条件に、北方領土返還交渉のテーブルをセッティングするというのが、鈴木宗男の発想であると勘ぐっていたが、佐藤が匂わすことから憶測すれば、どうやらそこにイスラエルも絡んでくるようだ。あるいはアフガンはおまけで、イスラエル・ロシア両国の利益をお膳立てすることが、鈴木宗男を全面に立てた当時の外務省の魂胆だったのかもしれない。
けれど、これはまさに憶測でしかない。むろん、佐藤の言うようにこれを公にすることは計画が破綻した以降の現行の世界秩序内で日本が泳いでいくうえでマイナスに働く懸念があるなら、秘匿すればいい。そんなことは枝葉に過ぎない。
しかし、いかなる果報な国益を見積もった計画も、その計画が頓挫してしまえばその国益は絵に描いた餅に過ぎない、「国益のため」が免責の印籠になるなら、誰もが「愛国者」となって国益を口走ればいいことになってしまうし、それは一般的な意味で国益(!)のためによろしくないのではないか。仮に現総理は国益にとって好ましくないと暗殺を企てるヤツが出てきたら、司法はこれを免責できるだろうか?
つまり、佐藤の法廷闘争における風変わりな要諦でである「国益」とは、先取りされた「国益」であり、それは現状存在しない架空の「国益」なのではないか。私には、佐藤の「国益」を死守せんとする発言が、その精神的よりどころを「自爆テロ」をもって守ろうする原理主義者と五十歩百歩に見える。
頓挫したがゆえに、「国益」は実現しなかった。それは外交として零点ということだ。実現しなかった「国益」をいつまでも国益国益と追慕するほど外交はヒマじゃないだろう。
佐藤は、原理主義者の世界認識と検察の「国策捜査」の筋書きの恣意性を糾弾するが、鈴木、佐藤両氏の「「国益」追求の行動も同様に恣意的な世界認識の帰結ではないか?


獄中記
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