小林信彦「うらなり」読む。
(文藝春秋 ISBN:4163249508)

「坊ちゃん」の語り手である「俺」は、東京から四国松山の中学に赴任した男だ。
作品冒頭「俺」が自身を語るように、向こう見ずでやせ我慢を性質としている。「俺」自身はその性格を江戸っ子気質と理解してるようだ。
そうした性格は「俺」を損な状況に追い込んでいるかもしれないが、おかまいなし、である。それは自分の裁量だから仕方ないと思っているふしがある。実際「俺」は全く自身の判断裁量によって行動している。行動が突拍子もないのは、「俺」の世界認識に多少問題があるのかもしれない。否、「俺」の世界認識は明らかに世間一般とズレている。
「坊ちゃん」は、教育現場という社会から疎外された男のハナシである。
「猫」において、「我輩」が主人に感化され、一丁前に書生風に語ることができるにも関わらず、猫としてしか扱われないのは、彼がまさしく猫であるからだ。一方「坊ちゃん」の「俺」は、「我が輩」すら体得した素養とそれに裏打ちされた処世術をからっきし欠いている。つまり、「俺」は見てくれは人だが、中身は世間良識を欠いてた存在なのだ。
その意味において、「俺」は「我輩」と正反対の位置いながら、世の中的には「我が輩」と同じ立場にある。具体的にいえば、教育現場における立ち振る舞いや会話の流儀を知らないということだ。むろん会議における暗黙の了解や議題解決の落としどころをさぐる腹芸など、知る由もない。
教職者としての立ち居振る舞いを「俺」がまったく頓着していないことを示すエピソードとして、蚊帳バッタ事件ある。これは「俺」が宿直当番日に、宿直室の蚊帳に大量のバッタを放り込まれるという災難をいう。確かにバッタを放り込まれた側はあまり気分のいいものでないだろう。が、怒り心頭で、生徒に謝罪を求める「俺」の態度はちょっと大人気なくはないか。蚊帳バッタは、まずバッタを大量に捕獲しなくてならない。これはかなり骨折りだ。この労力と手間は半端ではない。だから、蚊帳バッタは悪戯なく子供なりの歓迎のセレモニーではなかったか。
実際相手は子供なのだ。ここは穏便にすませるのが大人であり、教師的態度ではないだろうか。要するに「俺」は、生徒を許して得る教職者としての威信より、生徒に謝罪を求めることで自身の名誉挽回を優先したのだと思う。
とにかく、「俺」は世間からズレている。世間知というものの道理が「俺」は合点がゆかない。それが「俺」の「坊ちゃん」における役回りであり、そうしたアウトサイダー視点で語る「俺」は、世間をうすっぺらな取り繕いの総体として捉えている。
「俺」の世間への構えとして端的になのが、あだ名の命名だ。赤シャツ、野太鼓、山嵐、うらなり。「俺」は、世間体や社会的地位といったものを全く無視し、自在にあだ名を命名する。つまり、「俺」は教壇に立ちながら、その言動を統括する内面は、自身が勝手に名付けたあだ名世界にあるのだ。
小林信彦「うらなり」は、「坊ちゃん」を「俺」以外の別視点で語ったとすれば、作品世界は如何様に見えるだろうかというのがその着想のようだ。
上述したように、「俺」は世間にとってアウトサイダーとしてある。「坊ちゃん」の痛快さは、我々がとらわれがちな世間を屁とも思わぬ「俺」言動の痛快さである。だから、小林信彦がうらなり視点で「坊ちゃん」を書いていると耳にしたとき、正直それが面白くなるのか見当がつかなかった。
今回「うらなり」を読んでの感想は、これまたも随分真っ直ぐいったもんだなぁっというもの。著者小林のB型の血がこのような正面突破に結実したのかどうかは分からない。
とにかく小林は、うらなり視点という初っ端の着想一本で転がるところまで転がってやれという気分でなかったか。だから、「坊ちゃん」をその後のうらなりの人生でコーティングしたような骨子は、転がりに任せたゆえの場当たり的結果じゃないかと思う。
うらなりが、「俺」を真似て世間の権化近所の世話好き女房を「油揚げ」とあだ名したくらいから、うらなりの人生が徐行運転を脱し、急展開する。あだ名付けが、まるで魔法の呪文のように人生に作用する。「うらなり」はそういうハナシのようだ。


うらなり
うらなり小林 信彦

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