森達也下山事件(シモヤマ・ケース)」
(新潮文庫 ISBN:4101300712)

取材レポートをストレートにつづるのではなく、取材中の逡巡や思惑、あせり、企画として持ち込んだ先のテレビ局や週刊誌サイドとの認識のズレなど、取材過程で抱え込まれるトラブルや障壁も開陳する映像畑出身者のノンフィクション。
下山事件を取材したルポものは過去に何点かある。本書の特徴は、下山国鉄初代総裁轢死をめぐって、他殺/自殺や他殺であるなら、誰が?といった推理検証を中途で投げ出している点にある。
「投げ出した」というのはちょっと語弊があるか。とにかく森は下山事件そのものの真相から下山事件的なもののへと思いっきり舵を切った。
下山事件的なものとは何か?森は明確にそれを語らない。
敗戦後間もない時期、大半の日本人はその日の食料さえままならない有様だったろう。ある意味戦後民主主義は、そうしたさなか日本人にとって一縷の希望だったはずだ。
しかし思想や理屈では腹はふくれない。彼らの希望は戦後民主主でありながら、その実態はGHQだったということだろう。ある者はGHQの保守的な側つき、ある者は戦前の財閥地主体制を牽制するために育成された。腹いっぱい食うこと、そしてそれが安定的であるように働くことに左右関係なく、邁進した。別の言い方をすれば、たまたま自分は右から金をもらっているだけだった。ありていに言えば、金主の思い描く絵など、興味外だった。否興味を持つまいと目をつぶったのだと思う。兎に角、ひもじさからの解放こそが唯一の願望だった。
森が、亜細亜産業のボス矢板玄の実弟で、産業の庶務課長に席をおいた矢板康二抱く奇妙な感情は、矢板康二が、そうしたひもじさからの解放を最優先して生きてた実兄を間近で見た生き証人であると同時に、当人もまた兄同様に生きていた人物であるという直感ゆえである。
自らの生き方を恥じない矢板康二は、彼らがひもじさからの解放と引き換えた、戦後の暗闇を墓場まで背負っていく覚悟なのだ。森はそれを直感した。
森の異常な矢田康二へ感応は、仕方なかったとか、生活のためといった言い訳や後ろめたさを微塵を抱くことなく、「そうやって生きてきた」という矢田の自覚的な意識をその言動から感じたからだろう。
下山事件を映像でドキュメントしたいという森の最初の算段は、矢田と対峙したインタビューアの女性の<不発>で座礁する。この現場に居合わした森は、下山事件をインタビューア側からでなく、矢田康二側から見据えるという選択をし、本書を書いた。
つまり、「下山事件(シモヤマ・ケース)」の対象は矢田やその他の生き証人でなく、インタビューアの女性が代表する敗戦後の歩んだ日本的な生き方とその延長としての今日こそが、森の照準した対象なのだ。
天秤の片方の皿に自らの生活を先にのせ、それからそれにつりあう現実をもう片方にのせる。そうした現実追認的な「正しさ」の無限後退戦後日本の歩みこそが、下山事件的なものの発生要因だと森は言いたげである。
そして、仮に矢田康二のような自覚を多くの日本人が共有できていたとしたら、なし崩しの、白洲次郎風に言えば、プリンシプルなき現実追認はどっかで歯止めがかったのではないか?そう思ったからこそ、森は下山事件そのものの真相究明を投げ出す形になってしまったようだ。
反則スレスレの森節全開のノンフィクション。



下山事件(シモヤマ・ケース)
下山事件(シモヤマ・ケース)森 達也

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下山事件(シモヤマ・ケース)で『彼』として登場する柴田哲孝氏のコレを次は読んでみるよ。