○飯のリアリスト、司馬遼太郎


思想嫌いは司馬遼の不変のかまえだ。
尊王攘夷しかり、朱子学しかり、マルクス主義しかり。日本史上登場したイデオロギー一切に、白髪おかっぱ眼鏡男は嫌疑の目をむけ、司馬版閻魔帳とも言うべき彼の作品群において、罪状が告発し筆誅をくだした。
司馬遼の思想嫌いは、先天的なものか経験的に獲得したものなのかは分からない。ただ、歴史を語る場合はもとより、同時代的事柄について発話する際も貫かれた思想嫌いの姿勢は、あの柔和な顔にはそぐわない異様な厳しさを感じる。
なぜ主義・思想を嫌ったのか?
その理由を思い切って言葉にするなら、「思想は食えない」からだろう。
とにかく私は司馬遼から多くのことを学んだ。徹底した資料収集、辺境からの視点、江戸期大阪を中心とする商人文化への独創的理解、奇妙な詩情にまで高められたどんくさいユーモアの交配、作中ひっきりなしにしゃしゃりでる語り部の発明、はなし言葉の非論理的跳躍等々。まさにその恩恵は多岐にわたり今日の私を、私の思考を支えている。かりに司馬遼からのうけた学恩をキャッチフレーズ的まとめるとすれば、
人は、思想なくとも生きられるが飯が食えなくては死ぬ。
ということになるだろう。
飯が食えなくては死ぬ。
司馬遼作品が今日でも多くのファンから支持される理由のひとつは、この「飯のリアリズム」とも呼ぶべき、素朴かつ人間臭い洞察の裏打ちのためであることは間違いないだろう。ときに司馬遼は合理性を愛したと言われるが、腹が減っては戦はできない式の「飯のリアリズム」の合理性に限定されると思う。
作家司馬遼太郎が登場した昭和40年代、未だ日本は貧しかった。腹のたしにならない思想やそれに基づいた活動は、建前としては立派でも実質、半人前の現実逃避という了解が貧しいがゆえに共有された時代だった。
私見では、二次対戦後の焼け跡からの復興は、明治期の官主導で行われた富国強兵政策の焼き直しであった。違ったのは、平和憲法を掲げ経済発展に一辺倒に集中的税金が投下された点だった。外貨を稼がなければならなかった。手っとり早い方法として、アメリカへ加工品を輸入するという戦略が採用された。アメリカは、極東における反共の防波堤を日本に期待し、どんどんモノを買ってやる方針をとった。
しかし、高度経済成長を終え冷戦が終結した頃から、風向きは変わる。腹がふくれても満足できない空しさが暗雲のように日本中を覆い始めた。欲望という名の暗雲が。土地の高騰、リゾートの投機的開発、有名絵画やゴルフ会員券の高騰。整備新幹線道路公団に代表される属議員の跋扈と税金のおおやけ意識なき無駄使い等々。
下野した西郷に追随するように、官からヒマをもらい鹿児島に逼塞する武装の下級武士たち。彼らは日本人としてよりも、薩摩隼人として生きようとしたのかもしれない。さて今日日本の各地で「地方の時代」のかけ声とともに展開される陳情や税金ぶんどり大作戦は、明治10年の薩摩隼人が抱いた郷土愛と田中角栄以降跋扈し始めた政治手法の結合ではないか。
「飯のリアリズム」。それは確かに今日的にも有効である。しかし、高度経済成長期後のそれは税金を地方に投入するための口実になり下がっていやしまいか。司馬遼の「飯のリアリズム」はいつの間にか「角栄式リアリズム」に変貌してしまったとするのは言い過ぎだろうか。鹿児島選出の二階堂進が「趣味は角栄」と口にできたのは、西南戦争以来の宿願であった、大いなる大薩摩に国税をつぎ込む手練手管と角栄が直結したからではなかったか。
明治維新期にあって今日ないのは一言で言えば天皇だが、それに対応する「臣民」も存在しない。戦後民主主義天皇を「公」から「象徴」に格下げした。それは我々一人一人がそれぞれの君主かつ臣民という時代の幕開けだった。司馬遼が左翼風に日本を「この国」と呼ぶとき、公意識不在のまま権利が主張されがちな時代気分を憂い、国のゆくすえを案じたがためだろう。国家デザインはいうに及ばない、王の身体たる国土も飯の種として食い尽くしつつある。けれど、言ってみれば、それが「飯のリアリズム」のなれの果てだった。
翔ぶが如く」。この作品が司馬遼にして珍しく筆が重く、文意が右往左往しているのは、司馬遼の憂いがそのまま作品に反映したせいに他ならない。
翔ぶが如く」はしばしば失敗作の烙印を押される。たしかに司馬遼にしては、あの奇妙な詩情が足りない。否、足りないというより微塵もないというべきかもしれない。谷沢永一は、かつてこの作品を「偉大な失敗作」と評した。結局司馬遼は、西郷という男をとり逃してしまったというのが谷沢の見解だと思う。同時に取り逃がしたせよ、司馬遼は歴史家としての自身のスタイルを貫き通した点を谷沢は「偉大」と評したのだろう。「翔ぶが如く」の綴る筆致は痛々しいほど重い。先に私は、それは司馬遼の憂いのせいと述べた。
何を憂いたか?
私の憶測では、司馬遼太郎は無欲・無私の人、西郷と向き合ったとき、自身の「飯のリアリズム」もまた思想の一形式であることを痛感したのだと思う。