内田樹「私家版・ユダヤ文化論」読了。
(文春新書 ISBN:4166605194)


「バナナはおやつにはいりますか?」問題は遠足前の小学生にとって重大なテーマだ。要はバナナだけのハナシではない。バス酔予防のガムや乾燥梅干し、おやつとの相性を吟味しての水筒の中身(ジュース問題)、カロリーメイトのような補助食品等など遠足ライフ一切合財がこのテーマに内包されている。
しかし、オトナの我々は小学時分と同じ情熱でこの議題に取り組んだりはしない。けど、それはオトナがこれを蔑ろにしているためではない。オトナだって遠足は好きだ。否むしろ遠足をより一層渇望しているフシもある。
私見によれば、オトナは、いわゆる〈バナナおやつ〉問題を軽くやり過ごすというやり方で最大の果実を手にしようと算段するのだ。それがオトナ流だ。オトナの流儀だ。だから、やっぱりオトナだって遠足が好きなのだ。ただ愛し方が小学生と違うだけだ。
何が言いたいかといえば、問い立ての大半は、いくとおりもの答え方があるということだ。「ユダヤ人とはいったい誰か?」という問い立てもこの例外ではない。本書におけるタツルの試みは、日本、欧米それぞれの立場における〈ユダヤ人〉という概念を見定め、それらとレヴィナスの見解と突き合わすというもの。
注意すべきは、タツルには「これを読むばユダヤが分かるよ」式の新聞トピックス解説新書を書く意図が微塵もない点だ。
あとがきでタツル当人が告白するように、なんだかワケが分からん本だ。しかしこのチンプンカンさを瑕疵とみとがめるのは早計である。たぶん本書は想定される読者に懸命に誠実であろうとするためチンプンカンプンを孕むのだ。
語る事柄について過不足なく平易に語ることが教養新書の役割という意味ではタツルの態度は不合格だろう。でも、教養新書とはそうあるべきだという見解は一体誰の見解なのだろうか?別の形で問うならば、難解な教養新書なんてありえないのか?それは単なる偏見ではないのか?いや偏見というよりある集団における思考上の手癖を無意識に踏襲した結果ではないのか?ここで再度問おう。バナナはおやつなのか、否か?と。
タイトルに〈私家版〉と冠されているのは、ユダヤ人ならびその文化についての先人の考察よりもタツル自身のプライベートな〈ユダヤ人体験〉に基づいているせいだろう。つまり、師匠レヴィナスとの出会いによってもたらされた、ある種の感慨がタツルのユダヤ人ならびユダヤ文化理解の基本的構えを作ったということなのだ。
「先生はえらい」という不思議な先生論もあるタツルだが、ある意味「私家版・ユダヤ文化論」はエラいレヴィナス先生に導かれてを書いたのかもしれない。


私家版・ユダヤ文化論
私家版・ユダヤ文化論内田 樹

文藝春秋 2006-07
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