板橋作美『占いの謎』読み中 その1
(文春新書ISBN:4166604120

オーラの泉」、朝のワイドショーの星占い、金運を呼ぶ込む風水等など世間は空前の占いブームが席巻している。私は占いの類をあまり信じないタチたが、「めざましテレビ」であやぱんに蟹座が最悪、と彼女特有の申し訳なさそうな、しかしどこか冷たげで悪魔的な宣告を耳にするれば、多少気分を害しないこともない。ま、消極的にしろ私は占いの意見を気にしているわけだ。
たぶん大半の人にとって、さほどアテにしてないが、かと言って完全無視をきめこむのもなんだか気が引けるという存在が、占いなのではないか?逆に言えば、占いの完全無視は、目前の禍福に対する心構えを疎かにしやしないか、という社会通念的不安が我々のうちに根強くあるのだろう。
本書は文化人類学の立場から占いを考察したもの。筆者によれば占いとは、無軌道に見えるこの世の現象をある体系と照合することで予測可能な範疇に捕縛する技術だという。また、この意味において、占いの効用は科学のそれとかわらないともいう。
駒が紛失した際、対局者達は厚紙やコーラの王冠をその代用して将棋を指せる、という将棋ルールと駒の関係についての例え話は、筆者の占いに対する姿勢をよく説明している。厚紙や王冠が紛失した駒(歩や桂馬)の代わりがつとまるのは、本質的に駒に機能が内蔵されているのでなく、将棋ルールが駒の動きを決めてるためだということ。占いもコレと同様に、星の運行や手の平のシワに意味があるのでなく、占いの体系(ルール)が、星の運行や手の平のシワに意味を与えるわけだ。
占いには様々な種類があるが、それぞれの体系によく精通している者がそれぞれの占いを取り仕切る。体系について精通するとは、星の運行や手の平にわずかな差異も洩らさず感知する知覚を伴わなくてはならない。この兆候を相と呼ぶことがある。京極夏彦京極堂シリーズは、近代的合理精神から眺めた世界と俗信などプレ・モダンな精神世界が、同じ現象を眺めながら、その把握のされかたが異なるためのカルチャーギャップが毎回テーマになっている。つまり、占い師とっての兆候は、デカにとっての現場の指紋や血痕であり、考古学者にとっての出土品の関係にある。
こうして考えてみると、胡散臭い占いも体系と認識のファーマットしてみると、意外にも我々が近代合理の学問体系とあまり変わらないという結論に至る。
別の言い方をすれば、真理探求上の手掛かり(=兆候=相)は、それぞれが信奉する体系に従属する。道端で黒猫に出喰わしたとき、それを不吉とするか、カワイイとするか、シャッターチャンスととるか、あるいはまったく気に留めないかなどの黒猫から読み取られるの意味達は、知覚者の属す体系によって決定され、属さない体系の黒猫の意味合いは永遠に感知されぬまま放置される。