○「論座」4月号、高橋源一郎×豊崎由美×三浦雅士 座談会「「書評は「愛」と「闘い」だ!」を読む


最初に特集「松下政経塾の全貌」について。タイトルはキャッチーだが内容やや散漫。辛酸なめ子嬢の「松下政経塾1日体験記」は個人的にはうれしいが、塾の怪物化を煽るのが目的なら外すべきでなかったか?

座談会「「書評は「愛」と「闘い」だ!」読んだ。前半はどういう姿勢で書評を書いているか、書評を書くのに、どういう下ごしらえをしてるか、など書評指南的なもの。高橋の「書評はスピード。間違ってもいいか何か言う」の意見にちょっとびっくりした。豊崎の相方(?)大森望も本と同時に自分の評が出るのをベストだと考えているらしい。書評の役割を最大限に発揮するには今日の書籍流通の新刊洪水の現状にフィットせざるをえないということらしい。つまり大森は、「本を売ること」が書評の第一義であると考えているようだ(えっ当たり前?毎日新聞とか違うよね?)。
一方、高橋は読みの手の即意答妙の反射神経こそが書評(特に新聞書評)の真髄・醍醐味(する方も読む方も)だと考えているよう。これはダウンタウン松本の「ひとりごっつう」的な求道者の精神性を感じさせる。
今どきのWeb2.0風にいうなら、マッシュアップっていうのかな。評論っていうのは、他人のふんどしで相撲をとることだけど、そのふんどし借りた相撲がオモシロイ地平を切り拓くんなら、客も拍手喝采だろし、ふんどし貸した方も自分のふんどしの違った面が見れて面白いだろうってことか(違うね。絶対!)。
座談の最後に三浦が、「文壇」という言葉が意味をもたなくなっのだったら「読書界」という言葉が重みをもってくるべきではないかと提言しているのだけど、そうかな?と思った。
文壇をどう定義するかアレだけど、文壇や論壇、ロック壇、およそ壇というものは、作り手とそのトリマキから構成され、著作物ではなく著作者の人格やプライベートな素行を罵倒・吹聴する擬似空間をさすはず。
なぜ罵倒・吹聴が横行するかといえば、著作物より有名人の悪口がずっとマーケットが広いから。
そして、およそ壇の構成員は、著作者の悪口をマーケットに流すことで生計を立てている。この座談でも、豊崎さんの書いた原稿が元で「Title」誌のスタッフが総とっかえになったというエピソードが紹介しているが、これ自体が「いわゆる文壇」の逆鱗に触れた俺!という実に文壇的なエピソードに思える。
豊崎や大森はそういうつもりは毛頭ないのかもしないが、「文学賞メッタ斬り!!」なんていうのは、実に文壇風なゴシップとして読まれてるんじゃないかと思ったりする。ま、あてずっぽうな意見だけど。っていうか、アレを本気で「傾向と対策」に読む方がイカレているし。本屋時代飲みのときは、本(著作)について語るとより著作者の最近の動向や誰それとの論争が酒の肴になることが多かったような。。。。ま、酒の席で猛烈熱いハナシを聞かされるのもなんだけども。
とにかく悪口に娯楽の要素があるのは事実だろう。ならば、結局悪口の魅力に抗して如何に面白い作品を紹介し、「読みたい!」と思わせるかが、壇と界の違いなのかもしれない。あるいは壇人と評人の。
繰り返しになるが、悪口はキャッチーである。それは伝えたいこと導入であって心臓ではない。しかし浮世で泳ぎ生きていくというコトは、この悪口と評の配分を逆転させてしまうのではないか。壇に属せば壇の仲間から仕事が回ってくるはず、それなら著者へ「お手紙」を書いたほうが無難という算段も成り立つ。
逆にいうならお追従を排してまで書かなければなならないことを、本たちから読み取れるか否かということになるだろう。そういった意味で、豊崎が日和るとはおもえない。が、果たして豊崎のそのテクニックはどのくらいまともに読者に届いているのだろうか?
三浦のいうように文壇という言葉は意味をもたなくなったかもしれない。けれど、「ブッタ斬り」や「メッタ斬り」の惹句に悪口のニオイを嗅ぎ付けるゴシップ好きはわんさといると思う。
ことほどさように悪口は不滅なり。なっ、佐高っ!


大森 望×豊崎由美×岸本佐知子の三人の座談会「フラメンコ書評の秘密」も面白かったよ。
http://www.webdokusho.com/honshi/zassi-kongetu0511.html