松本清張砂の器」上・下、雑感

私は幼稚園から小一まで宮古島で過ごした。本島に盆正月に帰省したが、民放がやってない当時の宮古島の放送環境は 、良くも悪くも私を永井豪作品や石森章太郎作品から遮断した。
だから、父親が本島に割合頻繁に出張があることが 、非常に羨ましかった。むろん父親は仕事で赴くのであり、マジンガーZ仮面ライダーを観るためではないことは、小さい私も了解していたが、なにか釈然としないものを感じた。
自分も出張したい!と思った。それが私の出張への憧れの発端だった。

清張「砂の器」は出張の話である。主人公は今西刑事でもなく、前衛芸術家集団ヌーボーグループの誰かでもない。今西の出張が、奇縁につながり、それが事件の謎を解く糸口となる。そして、その糸口を手係りに今西はまた出張に旅立つのだ。
事件の性質の暗さに反して、作品全体が明るさを宿している。それは、楽観的な偶然への信仰の賜物と言える。今偶然への信仰と言ったが、換言すれば出張信仰に他ならない。
砂の器」の探偵役は今西の出張自体である。
今西の妻は、出張先に風情を感じているが、それは出張の醍醐味を知らない者の意見といわざるをえない。出張とは、出張者が自らの限界を超えようと偶然の海への一か八かの跳躍である。