松本清張「日本の黒い霧」上巻
(文春文庫 ISBN:4167106973

収録の「下山総裁謀殺説」を読む。
ある程度の人生経験をつめば、人間社会というものが公民の教科書どおりでなく、往々に対立・対抗する複数の勢力の覇権争いによって、平和=均衡状態が維持されているのだろうことは察しがつく。
別の言い方をすれば、ソリガ合う/合わないの人情的な瑣末から、掲げる目標の差異、目標へのアプローチの差異などをめぐって、人の集団が生まれるということ。端的にいえば派閥のようなものが会社やご近所、学校、政界等など、いたるトコロでせめぎ合っているということだ。
清張の下山事件についての推理は、こうした人間社会における派閥の存在を基礎としている。もっと踏み込んでいうなら、実社会でわれわれが感じる派閥の存在が清張の推理にある種のリアリティを与えている。
清張の推理によれば、下山謀殺はGHQの一勢力の犯行であるという。
清張推理は、人間社会でよく見られる派閥の覇権闘争がそのリアリティを担保としていると今述べた。GHQも人間の集団だから、その内部の複数の派閥のようなものがあっただろうことは説得力がある。しかし、同様の人生経験から、人間集団内部の対立が生命を奪う闇討ちに発展するケースはやはり稀であると思う。学校、職場、親類縁者、家族、私がこれまで属した、そして現行属している人間関係において、「こん畜生っ!」とか「てめぇ」と思ったりすることは多々あっても、これまで私は殺人には手を染めなかったし、職場であるプロジェクトをめぐって意見が合わないということで謀殺の片棒を担いだこともない。小泉自民に好意的な友人を待ち伏せしてドブにつき飛ばしたこともない。

というか、謀って殺すことが世の中稀である。殺人や殺人未遂の事件は新聞テレビを賑せているが、それらの大半は人間関係のモツレから衝動的なもので、謀ったような用意周到なものは少ない。下山総裁謀殺説の推理がリアリティを持つためには、GHQ内部の覇権争いを持ち出すだけでは無理がある。
そんなことは清張は百も承知だから、靴クリームのことや衣類に付着した油のことや、下山の希少の血液型などをとり上げているし、下山の公用車を追尾したらしい手記を指摘したりしている。
ただ、こうした個々の道具立ては、他殺説を裏付けても謀ってまで殺すことの立証にはなってない。
謀ってまで殺す理由は何か?清張によれば、米ソ対立の冷線構造が形成されつつあるなか、アジア共産化を防ぐため日本をその防波堤にしようというアメリカ本国の意図をによって、GHQ内のG2サイドが下山殺害を国鉄労組の仕業のように見せかけ、その勢力を削ぐことと、国鉄のリストラというGHQ命令に対して予想に反し突っ張った態度をとった下山の始末の一石二鳥をもくろんだ、という筋のよう。
謀って殺すことはそれなりの手間だし、コストもかかる。GHQという大看板は確かにその意味において有効で思える。また、GHQ内二大勢力の覇権闘争という構図はこの点において、俄然威力を発揮する。
また、東武伊勢崎線五反野に現れた下山らしき人物が旅館でタバコをのまなかった、という証言をもとにヘビースモーカーの下山ではなく、彼の替え玉だったという推理も謀殺を補強するものだろう。
しかしこれは、総裁がヘビースモーカーであることは国鉄労組も知っているだろうから、本来ならずさんな替え玉なってしまう。ま、GHQ側の意図はあくまで国鉄労組の犯行を臭わせることを目的としたということか。。。。
清張推理の論法は他殺説としてはよどみないが、謀殺説となると若干押しが弱くなるように思う。


歴史探索という空想の時間旅行はロマンを解す精神なしには生まれない。陰謀論、陰謀史はそうしたロマンチシズムのひとつの形であると思う。またこれは文学の領域である。
歴史の真相を探るといえば、カッコイイが所詮それは事件そのものでなく、それに触発されはフィクションでしかない。
清張文学がリアリティを獲得しているのは、彼独特ロマンチシズムを庶民的な生活から手にいれた経験則で裏打ちしたためだ。清張と読者の間にある共通の経験則が実になまなましいリアルさ生み出しているのだと思う。
逆にいえば、こうした経験則を保留し清張文学を眺めれば、読者は庶民的は名状しがたい独特の清張流ロマンチシズムを真っ向からぶち当たる。GHQ陰謀説はこの典型で、これにノル/ノレないは、読者各々の文学趣味の領分と考える。私は下山総裁謀殺説にはノレない派だった。



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参照:
下山事件資料館
http://members.ytv.home.ne.jp/shimoyamania/


ウィキペディア,「下山事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6