○祝!斎藤希史「漢文脈の近代」(ISBN:4815805105) 賞受賞

サントリー学芸賞大竹文雄・阪大教授ら9人に
http://www.asahi.com/culture/update/1110/013.html


立ち読み程度できちんと読んでるわけでないが、版元名古屋大だしああコレは獲るだろうなと思ってました。
たしか「支那」という言葉がいかにして侮蔑の意味を帯びていくかなんてことが書かれている(それだけじゃないけど)。
以下妄想たくましく、まったくの当てずっぽうでいうと、斉藤先生の関心ごとポロティカルコレクトそれ自体でなく、欧化の波が押し寄せた際、東アジアで共有された「東洋」イメージの成立過程と変遷だと思う。で、西洋視線をまんま、内部に転写してた形のセルフイメージも生み出された、と。
往時の「脱亜入欧」スローガンにおける「亜」とは、つり目な自分の顔くらいの意味で、それがかっこ悪いなーと思い始めたということ。つまり、独自の審美のものさしをうっちゃり、西洋のものさしを重宝するのが当然になったわけだ。
かつて、「ラーメン」より「支那そば」のほうが旨そうだと筒井康隆はいったようだが、これはあまりよいアイデアとは思えない。というか相当にまずい。また、「支那そば」ウマそう主義に対して、「東シナ海」は別段中華はいちゃもんつけないから、という反論もなんかちがう。
それなりに生きていると、普段用いる言葉が社内や取引先との間で「おとな語」として機能することは誰にでも思い当たること。ある言葉のおとな語としての側面は会社の公的文書にものらないし、ましてやマスメディアにも使用されないが、それはどうしてなのか?逆にいえば、ある言葉のおとな語の側面をおおっ平に語ると何が起こるのか?
筒井の「支那そば」ウマそう主義はなるほどウマそうだと思うが、われわれは支那そばばっかり食ってるわけでもないのだ。たまには、お茶漬けも食べたいし、鶏白湯もイチゴも食いたい。人間食ってばっかしじゃ牛になるから腹ごなしの散歩がてらに近代に生まれた東洋の自分イメージの変遷をたどってみるの一興かもしれない。
その際斎藤希史「漢文脈の近代」は上等なガイドになると思う。



漢文脈の近代―清末=明治の文学圏
4815805105斎藤 希史

名古屋大学出版会 2005-03
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