関川夏央「白樺たちの大正」読み中 その2
(文春文庫 ISBN:4167519119)


とある神田の秤屋に小僧がいた。先輩のする旨い寿司屋のうわさ話を耳にし自分も食いたいと思い、遣いだされたとき道すがら寿司屋に吸い込まれていく。所持金が足らず寿司を食うことなく落胆の態で帰る。このとき寿司屋の客に貴族院議員のおっさんがいて小僧の様子を見、同情した。
貴族院議員のおっさんは体重計を買いに秤屋へ行った際、偶然にあの小僧を認める。
体重計を買うには名前と住所を記帳する仕組みになっていると番頭に言われる。おっさんはでたらめの住所と名前を書き、小僧に体重計を運ぶ係として連れ出し、寿司屋につれていく。前金で寿司の勘定を払い、小僧に腹いっぱいくわせるように女将に差配して、自分は食わずに寿司屋をあとにする。なぜか逃げるように。善行を施したのに悪事をはたらいたようなバツのわるい気分が胸をよぎったから。
おっさんは帰宅して、自分は善行したのにうしろめたい気分になったと妻にはなす。
小僧は自分寿司をご馳走したあの客はいったい誰だったのだろうと考え、神様だという結論にいたる。そして神様は困ったときにまた助けてくれるだろうと思ようになる。
そして、「小僧の神様」は次のように締めくくられる。

実は小僧が「あの客」はの本体を確かめたいという欲求から、番頭に番地と名前を教えてもらってそこを尋ねて行く事を書こうと思った。小僧はそこへ行ってみた。ところが、その番地には住まいはなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧はびっくりした。−とこういうふうにに書こうと思った。しかしそう書くのは小僧に対して少し惨酷な気がしてきた。それゆえ作者はその前のところで擱筆することにした。

志賀流の「すべらない話」といった風だ。この話の肝は、エスタブリッシュメントな男が経済的に恵まない小僧に食いたそうだった寿司をおごってやりながら、男はバツのわるい気分になったということ。寿司をおごった際にそう思い、妻に話すといった形で念がおされる。そして最後の段で、作中人物を俯瞰でみる位置にあるメタレベルの作者の声で小僧の人生へ過ぎた介入はキマリが悪いと駄目押しがされる。
周到な計算ずくの、志賀らしい短編だといえる。再読して小僧の話と了解していたが、これは明らかに、貴族院議員のおっさん側の話だと思った。関川は「白樺たちの大正」」で、作中の貴族院議員のモデルは志賀自身という。関川の意見では、作中に念押しに語られたバツの悪さは単なる気分ではなかったようだ。
「白樺たちの大正」300ページより引用。

志賀直哉が『小僧の神様』を書いた大正八年はまさに経済の時代だった。大戦景気で多くの成金が社会の表舞台に登場したが、彼らはそれまでおの金持と違っていた、金の力を誇示するそのやり口はあまりに露骨だった。人々はそれを嗤いながらうらやんだ。「諸仏の尊像に黄金を塗布した上代と、今の金歯の風習を間には、必ず隠れた心理上の妙脈がある」(「金歯の国」)と柳田国男は書いたが、金歯という不思議な流行も、金時計を哀願し誇示する悪趣味の大衆レベルでの横行も、この時期を嚆矢とするのである。

維新後、人はその才覚次第で栄達をつかむことができると信じた。分相応の生き方が美徳とされたときは夢のように消え、「自由競争」と「立身出世」が到来した。
成金を嗤いながらうらやんだのは連中は、成金が自分たちとそれほど才覚に大差ないと感じていたためだろう。いわゆる成金趣味の金遣いもそれまで法外金を持ったもことがない身の上ゆえの無手勝流のそれだったと思う。つまり大衆のうちに富めるものとそうでないものが、今風にいうなら「勝ち組」と「負け組」発生した。
白樺派の連中は急速に金を掴んだ者でない、エスタブリッシュメントな階層の子息たちの集まりだった。大衆は自らの出世栄達にあこがれを持ちつかもうとした。対して、武者小路らは金歯よりも金で買えない幸福や人の道について考えをめぐらせた。金は理想のために蕩尽された。
ようするに、武者小路の「新しい村」構想も、金、金、金の一辺倒になってしまった世の中を「改造」する手段の提案だったのだ。けれども、そうした人道主義的な立場にある種の疑問を感じていたのが、志賀直哉だったと関川は指摘する。
つまり、小僧とは当時の成金になれなかった大衆のことを指すのだろう。そして、その生活を傍から同情したり施しをやろうとする連中の、安易に「神様」になってしまいかねない鈍感さに異議申し立てをした。
小僧の神様」は、志賀直哉武者小路実篤ら人道的社会改造推進派へのいやだという応答だった。阿川弘之が志賀に師事したのは、そういう保守性への共感だったのかもしれない。



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