○増井経夫「大清帝国」(ISBN:4061595261)読み中 その3


司馬遼太郎。彼の小説の特徴はその「余話」にある。「余話であるが」とか「以下無用のことだが」などというエクスキューズのあとに立て板に滝の勢いで歴史トリビアが開陳される。
衒学的な趣味など毛頭ない司馬遼だから、こうした形で披露される歴史トリビアは本来、読者が小説を読むうえでの補助線の役割をになっていたと思うが、大半の読者は矢継ぎ早に繰り出されるトリビアの波にさらわれ、史実と司馬遼の妄想のない交ぜのなかに歴史の蓋然性を「発見」することを常とした。畢竟蓋然性とは、フィクションに他ならない。
これを仮に司馬遼グルーヴと呼ぶ。司馬遼人気とはこのグルーヴの疾走感の気持ちよさに支えられていた。要は「余話であるが」は単にエクスキューズにとどまらず、司馬遼妄想に開始の合図という側面があったということ。
私はなにも司馬遼作品の面白さを軽んずるつもりはさらさらないが、こと、著者がひょっこり顔を出すという文章上のしぐさにおいて、「大清帝国」の増井経夫に軍配をあげたい。
「読みの2」でも書いたが、彼の叙述は淡々と清朝の出来事やその背景を語りながら、中途おもむろに当時の東洋史学の重鎮や同僚への強烈毒舌の俺節が炸裂する。
332ページより引用。

文字や言語の障害とは別に、中国の民族社会のなかでの約束事や内緒話が多く、その間の事情を若干知っていると、「通」とか「博学」とかになって、自分の売り物にすることができるようである。
日本で外国史を学ぶばあい、このような通人や学者の遊戯が専門の場をつくり、元来その民族にとけこんでいる、臍の緒のようなつながりとは別に体系をつくり上げてしまっている。ことに中国のばあい、きわめてながい期間に自分の好みの選択を重ねてきたので、そのようなかたよりは大きいし、やむえなかったことであろう。

日本のシナ史学には、衛星国でなかったにしても中華の威光の下で培った、それなりの基礎や伝統がある。おそらくそれは強みであると私も考えていたが、増井は否という。清朝の官僚機構などの社会制度全体がそうであったように、綿々たる伝統ゆえに活力を失っていると指摘する。研究対象は自身の鏡であるということか。
では、上記引用箇所にある「民族にとけこんでいる、臍の緒のようなつながり」とは、いったいなにを指すかのか。
増井経夫は中国の民衆こそがその歴史の真の主役であるとと言いたげのように思う。



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