○文学/文学じゃない、境界は誰が引いた?


高橋源一郎の「文学じゃないかもしれない症候群」(朝日新聞社 ISBN:402256489X)は、ざっくばらんにいえば、書評エッセー集というもの。
「起源のSFとSFの起源」と題した大江健三郎「治療塔惑星」レビューで、いわゆるSFファンは、この本に拒否反応を示すだろうと書き出してしている。親本の164ページより引用。

前作『治療塔』が出た頃だったと思うのだが、若手の代表的SF作家である大原まり子が、非SF作家が書くSFの傾向に触れ、みんないい作品なのかもしれない、でもSFのSFらしさ、SFファンならよくわかる「あの感じ」がなくてつまらない旨発言していた。
要するに、「なんか違う!」のだ。

高橋は、パトリック・パリンダって人の「SF/稼動する白昼夢」からパラ文学というアイディアを紹介援用し、この「なんか違う!」感の解明している。165ページより引用。

ここでいわれていることはこういうことだ。文学は自分の周辺に、自分によく似たものを生んできた。それが「パラ文学」だ。かつては小説自身がそうだった。そして、小説(もしくは「純」文学)が文学の中心に位置するようになると、SFやミステリーがその役目を背負った。
SFがその周辺にあるとき、文学は「ぼくは文学だ。SFでない。だからこういう書き方をしよいう」ということができる。逆にSFは「ぼくは
SFだ。文学でない。だからこう書こう」ということができる。文学とSFはお互いを鏡にすることができたし、それは同時に緊張した関係でもあった。(中略)だが、やがて文学とSFは、お互いに無関心な「単なる他人」になっていくのである。

この文脈でゆけば、高橋が文学な人大江健三郎、彼のSF的小説「治療塔惑星」について何を言わんとしているかは察しがつくだろう。文学とSF「単なる他人」になる前段階の変なもの、<パラ文学>を大江は書いたということだ。


ところで、私がこの<パラ文学>についての高橋源一郎の意見を引いて思うことは、近代日本以降の文学(とりわけ小説)とそれ以前にあっただろう文学のこと。戯作云々のハナシでなくて、落語や講談、歌舞伎などの音声を中心とした文学、口承文学的な流れに思い至るのだ。
ここ最近、デジオやらラジオで話芸への関心が個人的にフツフツとしているせいもある。むろん、演芸を文学として論じることはかなり鈍臭くうつるかもしれない。けれど、たとえば江戸の音声中心文学の伝統の系譜に、司馬遼太郎の余話だらけの文体と明石家さんまのホントはそれほど面白いこと言ってないのにリアクションで笑いを起こしていくアノ手法を配置し、さらに漱石「坊ちゃん」の一人称の語り起源を探ることは、案外面白いココロミではないだろうか。



文学じゃないかもしれない症候群
402256489X高橋 源一郎

朝日新聞 1992-07
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