○TBS「スーパーフライデー 美空ひばり十七回忌今、甦る!最期の熱唱独占秘蔵映像アルバム永遠の歌姫不死鳥伝説」を見る

途中から見たのだが、圧倒的な歌ヂカラに今更ながら驚嘆する。
晩年は明らかに声量の衰えいるのが見てとれれるが、それをカバーして余りあるひばりの技術の高さに打ちのめされる。
少々難を言えば、進行役の森光子の多感な感受性は演出的には邪魔であった。

とココまで書いたところで、高田の「グロテスクな教養」を想起しよう。
高田によれば、日本的文脈における教養とは、「学校の外にある」という思いこみ(=社会通念)があるという。
つまり日本的教養主義とは、受験エリート集団が受験に打ち勝った瞬間から新たなステージに立ち、新たな基準で切磋琢磨するシステムを意味している。
仮にこの際限のないこの切磋琢磨の輪廻から抜けるには、圧倒的な才能の裏書きか、ドロップアウトする他術はない、というのが、サラリーマンが気楽な稼業でない所以だ。
要するに教養とは、「それなり」の才能(=凡庸な)のエリート君に「私の生きる道」の模索のツールとして機能した(!)ということを指す。
私自身に引きつけて考えれば、逆立ちしてもエリートの末席に座れない身分にも関わらず、幸か不幸か大学教育が大衆化した時代に生まれ、漠然とながら左記に述べたような教養主義の薫陶を受けた(最後の)世代に私は位置したと考える。あるいは体質的に遅ればせながら、教養主義の末席に名を連ねるたというべきかも知れない。
つまり、いくら動物化が喧伝されようが、教養の力(=「大きな物語」)を信仰してやまないのが、当の私であるということだ。
その点「かけがいのない私」であるハズの私は、実は凡庸な群衆のひとりにすぎないということだ。
満身創痍気味の「イタさ」を堪えて更に言及するならば、冒頭(!)に述べた私のひばりの歌ヂカラへの賞賛は、「学校の外」にアクチュアルな人生の指針を模索する、凡庸な大衆教養人の姿こそ私に他ならないと言うことだ。
いやはやなんとも、「いやーな気分」よのぉ。

グロテスクな教養
高田 里惠子

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