高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」読み中

痒いトコロに手が微かに届いている風な加藤典洋の解説は余計にもどかしい。

小田中直樹cahier,「『いま歴史とは何か』」より引用。
http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20050525/1116982835

(3)歴史学方法論の回顧と展望という点では「エピローグ」(フェリペ・フェルナンデス=アルメスト)が興味深い。彼は、記憶の問題について、それを「言語」のレベルではなく「認知」のレベルで捉えるべきことを説く(249〜50ページ)。つまり、もはや「言語」は「この紋所が目に入らぬか」的な最終審級(独立変数)ではなく、「認知」によって説明されるべき、単なる従属変数とみなされなければならないのだ。これは、件の「言語論的転回」のインパクトを歴史学者がどうこえてゆけばよいかについての、示唆的な指摘として読まれなければならない。たしかに、考古学をはじめとする周辺領域を垣間見ると、まもなく歴史学は「ポストモダニズムフーコー、言語論的転回」ではなく「認知科学」にもとづいて議論をしなければならなくなるだろうという気が、ぼくもしてくる。もっとも、それじゃどうすればよいかといわれると、具体的な処方箋はもちあわせていないのだが……。

個人的ブームである司馬遼のヘンなところは、「言語的論的転換」については大変無頓着なトコロかもしれない。
「言語的論的転換」とは、記述されたことでなく、記述それ自体、その見えざる制度を念頭する問題意識を指すのだと思う。
司馬遼は、欧州列強と互する近代国家日本のなりたちに奔走した龍馬たちを描きながら反面、近代小説概念から大きくはみ出し、独自のスタイルを「バスク人」と奇妙な比喩で居直った。その根性は、藩を全世界として太平に生きた徳川時代の大半の小役人の精神構造にダブって見える。
コメント欄でoshiroさんが報告してくれた 「他人に読まれることがともかく嬉しくて誇らしくて仕方ないといった自意識にふさわしい技術の域を出ず」という渡部直己の司馬遼批判はこの意味で的を射ていると思う(http://d.hatena.ne.jp/yasulog/20050528/coment)。
高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」は、おそらく渡辺直巳もぐーのねも出ない技術と高い意識を持って書かれている。
余話的な妄想だが、天才織田信長なら、司馬遼をなど足蹴にし源一郎にバテレンよりもらった金平糖をくれただろう。

さようなら、ギャングたち
4061975625高橋 源一郎

講談社 1997-04
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