北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」
NHK出版ISBN:4140910240

演芸おいて、楽屋オチや内輪ウケっていうのは綿々とあったものだと思うが、コントや漫才等、芸の潤滑油的な役割に留まっていたと考える。
鳳啓介の女癖の悪さ(「黙っとれ、このエロガッパ!」という京唄子のツッコミ)や横山やすしの暴力沙汰を舞台で食って掛かるきよしによるボケとツッコミの反転などが思い浮かぶ。中田カウス・ボタンの借金ネタもこの系統。
おそらく、舞台外の情報である演者のパーソナリティをネタ化する術は、週刊誌やスポーツ新聞の台頭ともにゴシップ記事の大衆の周知によって獲得されたものだ。
80年代の漫才ブーム時にも演者のパーソナリティをネタ化は踏襲されていくが、鳳啓介や横山やすしの場合と異なり、紳竜のヤンキーやB&Bの岡山対広島という具合に、過剰演出したパーソナリティのネタ化によって、舞台をこなす形に変容した。要するに、それまで漫才への導入や立て直しであったパーソナリティのネタ化が、漫才の本ネタに躍り出てきたわけだ。
その後、漫才ブームは「俺たちひょうきん族」を生み、それまでの台本ありき作り方から、楽屋落ち内輪ウケのアドリブ満載(「さんちゃん、寒いっ」という紳助のマンションの前でさんまの帰りを待つ女)の手法に舵をきる。懺悔コーナーでディレクターが水を被ったりするのが新鮮だった時代。当時はそれで「面白かった」わけだが(「ガキの遣いやあらへんで」のへーぽーは、八〇年代的ズッコケ裏方さん典型で、観ててツラい場合もある)。
二〇〇五年の今日のテレビバラエティは、「水を被る」のがディレクターでなく、石田純一や梅宮辰夫や杉田かおるだったりするわけだ。簡単にいうとズッコける役ということ。
こうしたタレントを「あはは」と笑うのでなく、その構造を「イヒヒ」と笑うのが嗤いなんだろう。Webやスポーツ新聞、テレビのワイドショーの芸能記事は、タレントのプロモーションやイメチェンを嗤うために読まれるようになったということか。なんだかうんざりする。が、私にも一介の嗤う者の部分がある。イヒヒ。
テレビを嗤う者の先駆者だったナンシー関だが、彼女のテレビ批評が嗤うための嗤いでなく批評として成立しているのは、結局テレビが好きだったからか。。。
うーん、素朴なナショナリズムに繋がりそうだぁ。

嗤う日本の「ナショナリズム」
北田 暁大

日本放送出版協会 2005-02
売り上げランキング : 1,914
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

参照:
試行空間「これは広告である」
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20050222#p2