○リチャード・T・ヘフロン監督「トラックダウン」
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD6398/index.html

真夜中に目が覚めてしまいケーブルテレビのミステリーチャンネルをぬぼぉーと眺めるていると、映画をやっていた。「トラックダウン」というヤツ。
あらすじは、モンタナの田舎暮らしに嫌気がさした妹ベッツィーと彼女を連れ戻すためにやってきた兄ジムの話。
兄貴のジムは体躯もでかく腕っ節も強い。カウボーイハットを被っているが「俺はハンターだ」という台詞から彼の生業と銃操作の腕前の分かる。
都会とは何か?私見では文化資本の集積地だと思う。人、モノ、カネはそういった文化集積地に集まり更に文化は集積する。
ベッツィーが憧れたのも、そういた文化集積地としての都会だったはず。彼女は結局高級娼婦モドキになるわけだが、タイピストや女給のような仕事では、集積された文化資本に存分にアクセスできないと踏んだからだ。それでは田舎のママの人生とかわらないわ!ってことだ。
一方の兄ジムは都会であっても、カウボーイハットを被ったままだ。田舎者丸出しの姿で妹を捜す彼の在り方はそのまま都会へのアクセスもモンタナのハンターの流儀を通すというジムという男の生き方を反映していると思う。
だから、「トラックダウン」は、さっさと都会人をカモフラージュして文化資本へのアクセスを享受しようとした妹(殺される)と、モンタナの田舎流で文化資本に乗り込んだ兄貴の復讐劇だ。
ジムは悪党が暮らす高層マンションに侵入する。まるでロッキー山脈の岩肌を登るがごとく登る。妹が圧倒されたキラキラの都会もジムにとってはモンタナで常日頃格闘している自然の変型でしかないのだ。
「郷に入れば、郷に従え」では、殺される。だから、都会をロッキーの大自然に読み替えてアクセスするのだ。
おそらく大半のアメリカ人はジムのような田舎者なのだ。けれどもなかなか彼のように立ち振る舞うことは出来ないだろう。ゆえに都会の小綺麗な悪党コテンパンにするジムの活躍に溜飲を下げるわけだ。
必要であるなら、田舎者は田舎者なりのスタイルで文化資本にアクセスする。銃はそのためにある。銃とは「どこでもドア」だ。
どうってことない映画だが、だからこそアメリカなるものの無意識の価値観が見事にそこにある。