有栖川有栖「赤い稲妻」(「ロシア紅茶の謎」収録)
講談社文庫 ISBN:4062635488
巻末の近藤史恵の「解説」より引用。

新本格」の作品達たちにしばしば寄せられる、「人間がかけてない」とか「ゲーム感覚だ」という批評は、音楽における一部の人々のサンプラーアレルギーや生楽器信仰に近いものを感じます。
(中略)
少々むきになりすぎたかもしれません。新本格批判も生楽器信仰も、どちらも今ではマイノリティにすぐないというのに。

新本格派」というのは、「社会派ミステリー」に対抗したネーミングだと思う。
上記に引いた近藤の言葉は、自身が言うように「少々むきになりすぎ」かもしれない。が、小説の出来不出来について、「人間が書けてない」といった人間信仰の表明は、やはり「ダサい」と釘をさしておきたい。松本清張リバイバルブームの昨今、その勢力回復の兆しがあるからだ。
ところで、「赤い稲妻」読んでクラクラした。
火村の性格がいつもの彼とはちょっと違っているせいだと思う。なぜ性格が違うのか。おそらく推理小説としてのキレを優先させたため、作者が探偵役の火村の「性格をいじった」のだと思う。
むろん、それで「人間が書けてない」と言うのが立場ではない。むしろ、逆に探偵の性格的統一性よりもより重要なものがあると判断する有栖川の見識に共感した。
「赤い稲妻」読後のクラクラは、私に火村や助手の有栖川(助手は作者と同姓同名なのでややこしい)や刑事や犯人達の人形が入った箱を想起させた。箱は作者有栖川の頭のなかにある。そして、彼らは有栖川の書いたシナリオに従って芝居をするのだ。
「大学デビュー」とは、それまでの根暗な自分をご破算にし、明るいキャラでキャンパスライフを謳歌したいという宣言であるが、これまでの自分を容易にご破算にできると思えるのは、自分が周囲の対人関係で「自分という役割を演じていたにすぎない」と感じているからだ。
風呂敷を拡げ気味にいえば、通常私達が自己の性格だと信じているものは、役割のことではないか。
つまり環境が刷新されれば、役割、性格も更新されるわけだ。
火村に付け加えられた性格もたらすクラクラ感の正体は、かさぶたと化した「人間観」を引き剥がすと顔をのぞかせる、からっぽな「私」ということだ。


ロシア紅茶の謎
有栖川 有栖

講談社
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