○ノンフィクションライターはなぜ足でかせぎたがるのか

高山文彦の 「日垣 隆『そして殺人者は野に放たれる』評より引用。
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/464801-9.html

いまの日本の、起訴前におこなわれる精神鑑定のおぼろさ、そしてひとりの心理学者がつくりあげた精神鑑定の体系にいまなお引きずられて、「心神喪失」や「心神耗弱」を判子でも押すように量産しつづける司法の無能ぶりはどうか。その大学教授は、遺族が綴った痛ましい訴えを読んで、これがほんとうに人間の語る言葉かと眼を疑うような一文を遺族に投げ返した。

メルマガ「このノンフィクションがすごい!」第2号が届いた。
2004年新潮ドキュメント賞を受賞した日垣隆の「そして殺人者は野に放たれる」に興味をもった。刑法第39条心神喪失者の行為は、罰しない。2心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」の現行運用に対する痛烈な告発の書という案配だ。
左翼インテリの思考停止のサンクチュアリ、岩波で本を書くような馬鹿タレが正義を気取ってどうするのか?とは言わない。岩波で本をだせばソレが名刺代わりになると信じる、信仰の自由がこの国にはあるのだから。
私が不思議なのは、「膨大な資料に当たり、人に会い取材を重ねる」手法に対するノンフィクション作家と呼ばれる人たちの無根拠な信頼だ。なぜ 彼らはそれに説得力があると思っているのかまったく分からない。
いかに膨大であろうとも、資料選定は必須である。その選定基準はなにか。
宿題などでレポートなどを書いた経験がありさえすれば分かると思うが、資料にあたるには、それなりの仮説や動機がある。
端的にいうと、悪いレポートというのは、その仮説や動機が目的化し、資料選定の眼を曇らせ自己の主張に都合の良い資料やサンプルを無意識に選んだ結果生まれる。
日垣の「そして殺人者は野に放たれる」がそうであるとは言わない。なんせ読んでないし。けれど、読むに値すべきかどうかについて私個人の気分は決まっている。