重松清、そのこだわりと可能性

金曜日、友人4、5人と酒宴をもった。
私の書いたレビュー
http://d.hatena.ne.jp/yasulog/20041205#p1
を見て、重松清「スポーツを「読む」記憶に残るノンフィクション文章読本」(以下「スポーツを「読む」」)を読んだという友人が一人いた。彼は私の重松絶賛にちょっと戸惑っているようだった。
説明不足もあるのかと思い、私の重松評価について再度書いてみる。

何よりも重要なことは、重松は「何を書くか」より「どう書くか」に興味がある書き手であるということだ。
「スポーツを「読む」」はスポーツノンフィクションの書き手それぞれの「どう書くか」という方法論について考察したものだ。
レビューでは、「このスポーツノンフィクションライターがすごい!」という体裁と書いたが、別の言い方をすれば、「各自のスポーツノンフィクションの方法論から迫った作家論」だと思う。
元来スポーツノンフィクションは、「惚れた」、あるいは「気になって気になって仕方ない」という書き手の対象へのloveが「何を書くか」の選定基準になっているジャンルだと思う。
だが、loveのみでモノが書けそれが売れるなら、版元も苦労はしない。恋は盲目。loveはloveであるがゆえに対象への書き手のプライベートな「お手紙」になってしまう恐れを孕んでいる。
それゆえに書き手は己の対象へのloveが空回りにないように自らをハンドリングする術を持たなくてはならない。loveな視線を己と対象との距離を冷静に眺める視点で担保する必要がある。
だから賢明なスポーツの語り手は、loveの制御する視点の獲得を目指す。そういう意味合いにおいて、スポーツノンフィクションは、「どう書くか」という方法論を書き手が意識的にならざるを得ないジャンルといえる。少々吹かし気味にいえば、スポーツノンフィクションは、書き手が「どう書くか」で勝負するジャンルなのだ。

ここで私が佐野眞一立花隆魚住昭など、既存のノンフィクションライターへの不満を述べれば、彼等の書きっぷりが「何を書くか」に傾きすぎて「どう書くか」についてあまりに無頓着である点だ。
何故、政権与党の総裁や幹事長を「書く」対象と選ぶのか?
そこに腐敗があるからか?
本来、国民や日本の将来のために彼等に委託された権力が、個人的な私利私欲のを肥やす道具として運転されることに対する告発か?
立花のロッキード事件への取り組みは、確かに角栄には勝ったかもしれない。ただ、その後の角栄的な権力の運転には負けたのではないか。仮に立花が角栄的なものにトドメを刺していたなら、佐野も魚住もオマンマの喰い上げではないのか。
もっと強くいえば、彼等は、角栄的な縮小再生産な人物の「金」の流れや「女」の影や「裏世界」との癒着振りを、これまた立花隆の縮小最生産風に「書」いているだけではないのか、とまあ、思う訳だ。
何年もかけて資料を収集し、インタビューを採り、謎(問題設定)に肉薄していく粘り腰の方法論に「ガンバッタんだね」と労をねぎらうことに私はやぶさかでない。だからと言って、何年もかけて資料を収集し、インタビューを採り、謎に肉薄していく粘り腰の方法論が無条件にエラいワケではない。逆に一方法論の無根拠な固執は、ノンフィクションを痩せ細らせる要因になりはしないだろうか。
ゆえに「スポーツを「読む」」における重松清の「どうか書く」に対する関心の高さは新鮮だった。そして大変貴重に思った。
「どう書くか」へのこだわり、それを検証をした「スポーツを「読む」」の重松の手つきは、スポーツノンフィクションに限定されない、「書く」こと全般への示唆を含んでいる。
重松の「どう書くか」について猛烈にこだわりを私は感じ、今後の彼がなしうる仕事を想起した。「スポーツを「読む」」の向こうに、ノンフィクションライター重松清の「伸びしろ」を見たといえば伝わるだろうか。
だから、今日もっとも活躍が予感されるノンフィクションライターは重松清だ、とレビューを結んだ。


スポーツを「読む」?記憶に残るノンフィクション文章読本
重松 清

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