私が小学生の頃、猫を飼っていた。名はミー。真っ白でしっぽが短い猫だった。性格は極めて温厚で、子猫の頃から老成した風情を醸し出していた。餌を与える母親にはなついていたが、子供の私たちには関心を寄せることは皆無に等しかった。こっちが遊んでやってるのに無視されることがしばしばあり、ペットとしての自覚に欠けた。ただ、彼を飼う理由はハブの好物であるネズミ退治を第一と私の両親は考えていた節があり、ゆえに彼の時代劇に登場する用心棒然としたブッキラボ−な態度はむしろあるべき姿だったのかもしれない。
夏のある日、ミーと私は縁側にいた。彼は日向ぼっこ。私は夏休みの自由研究のへちまのスケッチをしていたと記憶する。
ミョーン、フニョーン、ミョーン。突然妙な音が私の耳をとらえた。私はテレビがデカイ音量で鳴りだしたのかと思ったが違った。その音源は、私の側で寝ていたはずのミーだった。彼は何か危険を察知したようで、庭の方を睨み、くだんの不気味な威嚇音をバリトンで発していた。
「ハブでもいるんだろうか?」と私はその場で固まってしまった。が、ミーの威嚇する方向から飛び出てきたのは、犬だった。犬が姿を現すや否や、ミーは威嚇音に加えて、前傾姿勢を採り毛を逆立てフーっ、シューと猛烈怒り表現を犬にぶつけた。
後年「怒髪天を衝く」という慣用表現を知ったとき、真っ先にあのときのミーの姿を思い出した。それほどミーの怒り表現は卓抜していたと思う。私は庭に迷い込んだ犬を追い払おうと考えたが、中途半端に動くとミーがこちらを攻撃してくるんじゃないかと思い、「あっち行け、しっしっ」と口頭で犬に指示するだけに留まった。犬はミーの威嚇に度肝を抜いたのか、そそくさと出て行った。
縁側にミーと私だけが残った。こんなおっかい動物に私は日頃ちょっかい出していたのかと些か戦慄した夏休みの一日だった。
片岡義男の「日本語の外へ」は読みやすい本ではない。イラクのクェート侵攻いよる湾岸戦争の成り行きを観察することから始まる「日本語の外へ」は確かに読者を困惑させる。第一章は「アメリカ」と題され、300頁近く割いている。私も義男の意図が最初読めなかったが、ミーのことを思い出した途端に腑に落ちた。
義男は、普段はジェントルなアメリカが己の領域や価値観を侵害され今後もその侵害が拡大されると認識した場合、上から下まで同じ原理によって、アメリカの領域と価値のために、徹底的に交戦しようとするその姿を湾岸戦争に見定めたのだ。そして、義男は、普段は我々の目には見えないが確実に彼等の規範してあるアメリカ的なるものを、大幅に頁を割いて報告しているわけだ。
義男は、そうしたアメリカのシステムを開かれていると思いつつも突き放した形で語る。そもそも国家はモダンの産物であるが、アメリカとは極めてモダンな、人工的な国であり、そうであるが故にその拠り所であるフリーダムの危機に異常なほど過敏に反応するということを「日本語の外へ」は告げている。
我々日本人が慣れ親しんでいるアメリカの音楽や映画、文学などは、アメリカにとって、フリーダムによってもたらされた果実だということだ。コンピュータや放送、車、エネルギーなども産業もフリーダムに密接に関わっているのだろう。それを守ることは彼等の根幹に関わることなのだ。
片岡義男アメリカに戦慄している。それはあの夏、私がミーのなかに見据えた「他者」を想起させる。

日本語の外へ
片岡 義男

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