小田中直樹著「歴史学ってなんだ?」(ISBN:4569632696)感想〜歴史家、ウソつかない〜

アタリ。歴史家と歴史小説家の違いについてちょっと悩んでいた私に読書の神はブックオフの店員になりすまし、「歴史学ってなんだ?」を新書棚に指しておいてくれたのだ。改めて感謝>読書の神
歴史家と歴史小説家の違いはなにか。小田中は、いくら調べても分からんことは正直に分かりませんと言うのが歴史家の態度だという。だから史料の空白部分を想像力の翼をはばたかせ、エイヤっとばかりに語るのは歴史小説家の役目となる。
私の当面の司馬遼問題に小田中は、解決の糸口をあっさり提示してくれた。いくら膨大な史料いあたることが解釈、史観の真実性を担保するものでないのだよ。幕末維新大好きっ子諸君。
私は歴史家も司馬のように歴史観を提示すべきだと思っていたが、そうじゃないのかもしれない。膨大な史料をつぶさに調べ、史実を真実性という基準で、見いだしていくこと、それが歴史家が最優先になされるの仕事であると小田中は言いたいようだ。その成果を小説家やNHK松平アナが作品や番組に拝借するのはかまわんが、そういう啓蒙的なことは歴史家いとって副次的、余芸ってことみたい。積極的に史観を提示すること、史観ありきで歴史を研究する姿勢があまり妥当でないのか?小田中は一世を風靡した大塚久雄ら比較経済史学派を例に、歴史家も時代の要請やフレームからそれほど自由でないことを指摘する。空手家はしばしば瓦を手刀で割たり、牛を殺したりするが、瓦ばっかり割ってるヤツは、単なる瓦割りが好きな人ってことか。
ただ、小田中は、歴史家の仕事として読み手を「わくわくさせる」ことも大切なことだという。わからんことはわからんと正直に言うこと前提で。で、そんなキッツイ「しばり」をかいくぐり、滅茶滅茶オモロい歴史学の成果として、良知力の「青きドナウの乱痴気」や池上俊一の「動物裁判」、ナタリー・デーヴィスの「帰ってきたマルタン・ゲール」を挙げる。「歴史学ってなんだ?」は歴史に関わる啓蒙書のブックガイドとしても、良い指針になる。
ただ、私には、良知のガン告白エピソードは、「物語」のアレンジの一種に思える。著者が大病を患って死のうが、苦節何十年の労作であろうが、それが史観の真実味を担保するものでもないのだから。