仲正昌樹著「「不自由」論」、あるいは晩飯の問題。

あちこちの書評で言われるように、一、二章はすばらしい。
三章は一,二章でスペックの説明した、でっかいパワーショベルで砂山を壊す感がある。
ただ、仲正氏がパワーショベルで砂山に挑む気分はわからんでもない。
以下に氏のいらだちの原因をさぐってみる。

いらだちの対象は二つある。
西部とサヨクだ。
彼等は陣営を構え対立しているように見えるが、両者は「人間とは何か」
についてあまりにのんきなので、仲正氏はいらだってしまう。
人間とは何か?
氏は、スローターダイクをひいて、「人間」とは「教養」を修得した者をと定義している。
逆にいえば、「教養」の中身が人間性を限定しているということだ。
その「教養」の中身は西洋に範がある。
そして、氏はその源を公共領域をの有り様を構築しようと試みたギリシャに見ている。
私的領域の諸問題(喰うや喰わず、銭が足りる足りへん)に悩む必要のない「閑人」がわしわし集まって構築した「真理」やら「美」やら「善」だ。
ところが、時代がくだるに従って、私的領域の問題が公共領域を浸食していく。教養人も明日の晩飯の心配しなくてはいけなくなったということだ。
マルクスは、まさに晩飯を心配した。
というか晩飯をみんなが食べられたらイイのにねと考えたのかもしれない。
すると、マルクス的人間像は、ギリシャの閑人からすれば「はぁ?」って感じだろう。そして、閑人は「人間」の堕落を嘆くかもしれない。
しかし、閑人はルソーから「お前ら不自然!」と突っ込まれている。
ま、「人間」とって、「教養」も大切だが「晩飯」も大切だということだ。

晩飯とは何か?「本音」ことだ。
ただ、注意すべきは、閑人たちの構築した「教養」は確かに喰えないが、「本音」が無限定に暴走すると収集がつかなくなる。
たぶん、今の日本の教育現場はそのへんで混乱しているのだろう。
「本音」と「主体性」と「自由」が合体して授業中も走り回っている塩梅なんだろう。

その元凶は、のんきな「本音」の賞賛する、左右のインテリたちだ。
西部の「国民の歴史」もサヨクの「革命成就」もオレ流に描いた「もち」に過ぎない。
当然、彼等のこさえた「もち」は煮ても焼いてもまったく喰えない。