○本読みのヒゲ、あるいは優雅で感傷的な読書スタイル


「色んな本読むね」
先日、友人に言われた。普段は受け流がしている。けれど今回は、言った当人もずいぶん本読む人なので変な気がした。
色んな本読むねって、アンタそりゃ、本読みの性分でしょうが!って思った。どんなに司馬遼太郎好きな人でもずっと司馬遼ばかり読んでるわけもない。池波の鬼平を読むこともあれば、吉川英治を手にとることもあるだろう。時代小説に飽きたら、アーサー・C・クラーク幼年期の終り」やイーガン「万物理論」読むかもしれない(えっ、それはアリエナイ?)。朝日新聞香山リカ評を読み、岡田芳郎「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(参照)を買いに本屋へ走る場合もあるだろう。
本読みの習性、行動というのは一見千差万別にみえるが、一定のパターンがある。
この本読みたい!という動機付けは書評にある。書評とは新聞や週刊誌に掲載されるブックレビューのことだ。新聞では朝日の影響が断トツで、週刊誌では文春が群を抜く影響力をもっている。これに週刊現代週刊ポストが続く。逆に読書を趣味と自負する人々界隈で日経新聞の書評はあまり神通力をもたない。
それから、本読みにはお気に入りの読み手が幾人かいる。大森望豊崎由美坪内祐三の三名あたりがいまバリバリの読書水先案内の三大巨頭といったあんばいか。
個々の読書傾向、趣味によって三大巨頭のメンツは入れ替わるだろう。坪内の代りに、川本三郎だったり、トヨサキ社長の代りに永江朗だったり、岡崎武志だったり。
本読みと本読むこと好きな人と違う。本読むこと好きな人は「好きな作家さん」を中心に読む。京極夏彦ファンや栗本薫ファン、高千穂遥ファンなどが言ってみれば、本読むこと好きな人たちの代表格だ。そう、そう。司馬遼ファンもこの部類に入るのだ。対して、本読みには「好きな作家さん」という概念がない!
好きな作家がいないなんて言い切ってしまったが、結局作家中心の読み方は本読みにははあまり馴染まない。わたしの昨今の読書傾向は、歴史モノに偏っている。あと、稲葉振一郎原武史四方田犬彦などの明治学院大勢力の教養新書のたぐいが大好きだ。レーベルでいえば、ちくま新書が頭ひとつリードか(もう少し言うとちくま新書と文春新書の中間あたりが好みなんだが)。
本読みは何かと理由をつけて、本を読む。たとえば「新書は時代の空気をキャッチアップするのに便利だから読む」とか。実際わたし自身半分本気でそうもっている。けど、「今これ読んでるよ」と友人に平田オリザの「演技と演出」( 講談社現代新書)を見せたりすると、
「色んな本読むね」
と言われちゃったりする。。。
猫のヒゲ。アレは強力なセンサーの役割を果たしているのそうだ。狭いとこをすりぬけたり、塀に飛び移ったりの芸当は、あのヒゲのなせる業だとか。風向きもヒゲで感知するらしい。つまり、猫が猫たるための万能センサーがあのヒゲなのだ。
本読みは基本的に書評読みであると先に書いた。書評を手がかりに新たな本と狩るのが本読みの習性なのだ。そういう意味で、書評は本読みのヒゲだといえる。
さよう、本読みは猫だ。「色んな本読むね」なんて言う奴らは猫じゃない。本読みじゃない。作家中心読書派の犬だ。そうか、そうだったのか!「色んな本読むね」なんて愚にもつかない台詞は、「好きな作家さん」の本が本棚にズラーっと並んでるいるからの発想なのだ。けっ、なんて陳腐な読書傾だ。さすが犬だ。まったくエレガントさのかけらもないぜ。本読みは猫だ。そうだ、わたしは猫なのだ、にゃー!
稀にそうでもない場合もあるがマスコミ媒体の書評は新刊中心だ。つまり、こうも言える。本読みは書評を読むことで、「今」をワシ掴かもうとしている、と。だから、書評とはブックレビューであり、時代評でもある。
本読みは、書評というヒゲで間合いを測る。月曜に週刊現代のナナ氏の「2008年版 文学賞メッタ斬り!」ブッタ斬り書評にニンマリし、木曜週刊文春の坪内の文庫書評に何故かイラつく。そして日曜、朝日の重松清の「叱り、叱られ」評(参照)にテンションを高くし、読売に渡辺靖の書評を探し、毎日の丸谷才一帝国を斜め読みする。
「色んな本読むね」
ナマ言んてんじゃないよ!こちとら「今」を読んでんだ!てめえーみたいなワン公とはコンポン的に読みに対する姿勢が違うっつーの!
読書界の猫たる本読みは、高度情報化社会を現代を小気味よく闊歩するために今日も本のページをめくる!