○コミュニティからアメリカを眺め、アメリカの途方もない深さを痛感する。


渡辺靖アメリカン・コミュニティ」は、文化人類学者である筆者がアメリカのいくつかのコミュニティを訪問し、聴き取り調査をしたその成果だ。比較文化論の論文というより紀行文めいているが、それは弱点でなくむしろ長所とらえたい。そのほど、「アメリカン・コミュ二ティ」は幻想めいた旅情をかかえた魅力的な読み物だ。
彼が探訪した個々のコミュニティは一つひとつ個性的な価値観をもつ。逆にいえば、価値観の一緒にする者たちの集落がコミュニティを形成しているといえる。これらのコミュニティの人々からうける俺の印象は、いわゆる典型的アメリカ人として思い描くそれと微妙にそして決定的にズレている。ゆえに、メガチャーチアメリ領・東サモア、LA郊外の城壁をめぐらした高級住宅地、ディズニーがこしらえた、ノスタルジックな住宅街等など、紹介されるコミュニティはさながら合衆国のなかの別の国のようだ。
一番度肝を抜かれたのは、絶対平和主義を聖書の教えとする守るキリスト教原理主義集団・ブルダホフだ。連中は、信仰を中心に生活する点でアーミュシュと似ている。また絶対平和主義的な聖書解釈も共通している。けれど、アーミッシュが電化を拒み中世的な生活を貫こうとするのに対し、自前のウェブサイトを持ち、工場でこしらえた家具や玩具、介護器具をネットを通じて世界各国で販売するという如才のなさがボルダホフの骨頂のようだ。
聖書の教えに則して生きることが彼らの根本だが、それはブッシュ共和党の支持基盤であるメガチャーチ(巨大教会)の教えとはまったく意見をことにするようだ。両者はともにキリスト教右派でありながら、ブッシュの政策について評価が別れている点興味深い。
渡辺は草の根の宗教右派勢力メガチャーチも訪問している。アルゾナ州のサプライズ市のラディアント教会がそれ。
ラディアント教会はすこぶるカジュアルな教会らしい。なんってたって、十字架やステンドグラスなどの教会的な装飾がない。その代り、フットネスルームやXboxも設備した児童ルーム、スターバックスのカフェまであり、「ショッピングセンターの一角にいるような気にさえなる」カジュアルなコンベンションホールなのだそうだ。おまけに幼稚園や託児所が隣接してあるという。
こうした教会の外観や設備は、「クールな(イケてる)教会」をイメージさせるつくりの一環とのこと。ラディアント教会は、信者の新規開拓に熱心で、Tシャツにジーパン姿の牧師が個別訪問で教会周辺住民の具体的ニーズの「声」を聴き、学校の建築に一役かってでたりするのだという。そして、神の声のみらなず、客の声を聴くといった徹底したマーケットリサーチの結果、2000年には信者は8000人、2002年には二千人を超える大所帯の教会、つまりメガチャーチに成長した。
アメリカン・コミュニティ」を読んでの感想は二つ。ひとつは、物理的な城壁をめぐらした高級住宅地が顕著だが、どれも閉じた印象をうける。一見カジュアルでとっつき易そうなメガチャーチも、郊外的な近隣との付き合いが疎遠であることの裏返しであり、その疎遠さが不安を産み、その不安が人々をメガチャーチに集わせる引き金になっているのではないか。けれども、構成メンバーとってそれぞれのコミュニティは誇りであることは間違いない。彼らは合衆国の国民である前にコミュニティの一員として振る舞う。それはときに合衆国に対する痛烈な異議申し立てにもつながる場合もある。
感想もうひとつは、筆者の戸惑まじりの口吻について。いささかセンチメンタルで文学的な筆致は、渡辺のフィールドワーカーとしての自信のぐらつきを反映しているのかもしれない。けれどその文学的な感傷はこれっぽちもマイナスとは思わない。
渡辺の戸惑いは、自身で見聞きしたものを忠実に書き留めようとするばするほど、これまで彼が学んだ学問体系からはみ出してしまうことへの驚きであり、逡巡だと思う。それは、それぞれのコミュニティと色メガネなく向き合おうとした彼の誠実さのあわられではないか。アメリカという広大な大地のなかで似た価値観をもつ者たちが集い、それぞれがそれぞれの好みに応じたコミュニティを形づくっている。それらが人の集まりであるという以外てんでばらばらであるという現実を直に見聞きしたのだから、なおさらのことじゃないか。
渡辺の「アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>」も読んでみたい。


アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所
アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所渡辺 靖

新潮社 2007-11
売り上げランキング : 2445

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

関連商品
アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>
エンドレス・ワーカーズ―働きすぎ日本人の実像
集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて
広報・PRの効果は本当に測れないのか?―PR先進国の実践モデルに学ぶ広報の効果測定
私の男