○「ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2」、あるいは「かっこ悪い」ポストモダン小説の読解のレッスン


ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2」によれば、今日の文芸批評における読解作法は、自然主義的なそれが主流をなしているという(156ページ)。
自然主義的読解とは何か?
大雑把にいうならそれは暴力描写は少年犯罪の時代を、セックス描写は、セクシャリティの揺らぎを、ネット・ゲームが登場すれば、社会の仮想現実化を読取るといったテクスト読解姿勢を指すようだ。
つまり文学作品は、それがたとえフィクショナルなものであっても、作家による現実世界についての記述の束であるという約束を自然主義的読解は前提としている。
東は、こうした読解方法は、文学と現実の関係か「透明」だと信じられてために「有効」だったにすぎないとする。
この場合の「透明」とは、言文一致な、紡がれる文章と現実世界が呼応しているという意味だ。キャラクター小説が書かれ、読まれる環境では、その前提はもはや崩壊している。つまり自然主義的読解は無効なわけだ。
なぜなら、キャラクタ小説は、キャラクターや設定や捨て台詞などのオタク的なデータベースからの引用によって紡がれたも複合体だからだ。

94ページより引用

近代以前、言語は意味や歴史に満たされた不透明なものとして存在し、主体と世界のあいだに障害として立ちふさがっていた。言文一致はその障害を取り除き、主体と世界が直面することを可能にした。少なくとも、人々に想像させた。自然主義文学はそこで生まれた。
(中略)
キャラクター小説の誕生によって言葉はふたたび「透明」でなくなり、現実を単に描写するものではなくなった。不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする矛盾を抱えた。

こうした、言文一致の前提が崩壊した今日的キャラクター小説のおけぼのにおいて、その物語と現実のあいだに環境の効果を挟みこんで作品を読解するような、いささか複雑な読解方法を提案したい、と東はいう。
東はこれをは「環境分析」的読解と名づけている。
この場合の「環境」は、キャラや設定、台詞などを網羅したオタクデータベースに限定されない。キャラクター小説の読者層が好むメディア(媒体)の相互作用をも含むと解される。
ところでキャラクター小説などまったく不案内の私だが、東の論法に強いシンパシーを感じた。勇気百倍をもらった気分になった。東が語っていることは、実は別に新しい問題ではなく、文学批評が無視してきた、ある領域にそのまま当てはまる問題意識なのだ。
左様、東の示唆は、私の当面のライフワークである司馬遼文学(ここはあえて文学と呼ぶ!)に、重要な霊感を与えてくれた。
実際司馬遼太郎はよく売れた作家としてのみ評価され、その文学的価値は不問とされてきた。それは、東が指摘するキャラクター小説に対する文芸批評側の態度と同じタチの無視のキメ方がほほ「通例」になっている。
司馬遼は、言文一致の原則など守る気持ちなどさらさらなかった。司馬遼は、基本的に講談や地霊化した戦国武将や幕末の志士たちを素材とした。また司馬遼独特な藩共同体人格形成説を導入することで、これら素材を躍動的なキャラクターに仕立てることに成功した。
新聞記者=忍者説、プロジェクト×的国家共同体の夢想、私小説的文壇的価値観への東大阪市的な疑問と近代説話の可能性、あるいは多弁なナレーターとして登場する筆者司馬遼の確立などなど。
司馬遼文学の足跡とは、広い意味では言文一致であるが、作者の自我を通した言文一致ではなく、作者司馬遼をを超えた歴史の意志=司馬史観(!)に導かれた、壮大な叙事詩ではなかったか?
はたして、成田龍一関川夏央など、司馬遼研究者が東の意見に耳を向けるかどうかはわからない(むしろ大塚英志に期待すべきなのか!)
しかしながら、「ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2」は、いわゆる80年代を席巻したポストモダン文学とは別のもうひとつの、「かっこ悪い」ポストモダンな小説たちを読み解く上で、重要な役割を果たすと私は確信をしている。


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