高島俊男水滸伝と日本人」読了。
(ちくま文庫 ISBN:448042749)

高島俊男水滸伝と日本人」は、水滸伝の日本における伝播と消化の変遷を追ったもの。
伝来するものは大抵、それが目新しく希少なものというのが相場だが、水滸伝もその例外ではないようだ。初っ端は原書が輸入され、そのコピーが国産され、お次は翻訳本の刊行、というぐあいに江戸時代後期(十八世紀前半)には庶民層にまで普及していたらしい。
今日日本において、水滸伝三国志と並びその人気は衰えることをしらない。というかコンテツビジネスがうんたらかんたらで、より活況を呈してる気配だ。けれど水滸伝は外国の小説であるから、端っから翻訳がすいすいといったワケではないようだ。
著者高島の眼目は、日本における今日的水滸伝活況の影の功労者にスポットをあて、その労をねぎらうことにある。
功労者の筆頭は翻訳者だ。けれど、それだけが功労者ではない。絵師、今風にいえばイラストレーター諸氏の作中キャラクター造詣が読者を魅了したことを忘れちゃイケナイ。実際、幕末維新期の月岡芳年やその後の小杉未醒の絵柄はグッとくる。とくに小杉未醒のやつは今でも全然古くない。っていうかカッコイイ。未醒自身の水滸伝好きっぷりがズンズン伝わる画だ。これは収穫。
明治以降、単に痛快痛快こりゃおもしれぇーや、でない批評的眼力をそなえた読者諸氏が登場する。正岡子規や芥川がその例で、この他に文豪鴎外もある。水滸伝活況には、彼らの功績も見逃せない。
芥川は、作中の悪漢たちがちまちまとした世間のルールなぞ屁でもない超道徳的な存在であるから痛快なのだと結論した。また鴎外は、水滸伝にみえる支那文明的分子は「ただちに是れ支那社会的分子」で言い換えるなら「宗代の支那と今の支那は同一顕象」があると、小説内に実際の中国の社会的構成要素が影をおとしていると指摘した。
この鴎外の着想は森田思軒に引き継ぎ、水滸伝から読み取れる中国社会普遍の要素として、「賄賂、「盗賊」「姦通」を挙げた。このうちの「盗賊」要素は、高島の「中国の大盗賊・完全版」モチーフでもあるのだろう。
翻訳者については、高島は時代時代の翻訳の同じ箇所を添削しその労がねぎらうという方式を採用している。が、時代がくだるにつれ、その添削は辛さが増す傾向にある。つまり今日わが国における水滸伝翻訳の両巨峰、駒田信二訳と吉川幸次郎訳に対する高島添削は激辛だ。
高島は自分は吉川訳のほうが好みだと言いつつ、次のようにつなぐ。
404ページより引用。

駒田役は、大過なきことを期した防禦的な訳である。対して吉川は攻撃的である。自分では大いに受けるつもりで意気揚々と舞台にあがり、下手くそきわまるギャグを連発して一人で大騒ぎして、得意満面、ふと気がつくと客席はシーン、と醜態をさらした失敗作である。しかも中途半端で投げだして弟子に尻拭いさせている。
しかし、厳密性格な逐語訳をしながら同時に読者も楽しませようという誠意と熱意は疑いことができない。

星を多く与え、一行コメントに苦言をそえて微調整式の映画レビューを中野翠双葉十三郎先生はたまにみせるがはたして、上記引用部分はその類だろうか。
私は、単純に「吉川訳が好きだ」宣言を免罪符に「褒め罵倒」炸裂とみる。高島にも、学者村の世間道徳を屁とも思わなぬ水滸伝体質の血が脈々とながれているのだ。痛快、痛快。
私的には、スポーツ実況中継風な弓館芳夫訳が読みたい。


水滸伝と日本人
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