サブカル=土着

坪内祐三「同時代も歴史である 一九七九年問題」をざっと読んだ。
ノーマン・ポドレッツという文芸批評家兼雑文家のハナシが面白い。
コロンビア大学卒業後ケンリッジに留学したポドレッツ青年はこの期間に「ヨーロッパ文明」を大いに体感すると同時に「ヨーロッパ文明」からはみ出た「アメリカ」がのっぴきならないパーセンテージで青年自身を形成する成分としてあることを痛感した、と。ふるさとは遠きにありて云々というか、要するにヨーロッパに触れ自らの「内なるアメリカ」を発見してしまったという話。
「内なるアメリカ」とは、具体的には「バットマン」や「スーパーマン」やオーソン・ウェルズのラジオ番組「ザ・シャドウ」等などのまったくヨーロッパ目線ではダサダサで語るにたらん、瑣末なゴミな、アメリカ産のもろもろを指すようだ。
サブカルとはなかなか定義のしにくい用語であるが、坪内の意図を汲むならそれはヨーロッパ尺度でない歴史ということか。
ヨーロッパ尺度でない歴史はなにもアメリカだけのものでない。イスラム圏にもあるし、中華にもある。むろん本邦においてもそれは「あった」。坪内は、平野謙がみせた天皇への「親愛」こそがヨーロッパ目線でない、自前の歴史=サブカルだったのではないかと示唆している。
だから、タイトルにもある「一九七九年問題」は、「文明の衝突」とか聖戦(ジハード)とか「マグダラのマリアは娼婦でなかったらしいヨ」といった具合にヨーロッパやアメリカ、イスラムなどの目線で語ることのみが繁盛し、やまとはくにのまほろば云々とニッポン目線の歴史(ニッポンのサブカル)を語るのは頭の悪い右翼みたいでミットモナイときれいサッパリ捨てしまい、そのこん跡を眺めてもなんのことだかさっぱりわからんというニッポン的な状況をいうのだろう。ヨーロッパ目線一旦無しにして、サブカルとしての地域史の総体こそが歴史なのだと唱えるなら、今日的な同時代性を欠いたニッポンの言語空間はみるも無残に映るという自体はどう考えればいいのか。
仏像、ゆるキャラ、崖ブーム、いやげもの勝手に観光協会等など。近年のみうらじゅんの活動を眺めると、ついつい二十年後のみうらじゅんを夢想してしまう。それは市井の民俗学者然としたじゅん爺ぃのツラ構えで、それこそ国から勲章とか貰ったりして「ボク宝」だ(笑)とやられたらどーしよう思いながら鳥肌を立てたりしている。
そういう意味で彼の足取りは、きょうび普通言われる意味でもまた坪内が示唆するところの「サブカル」だったりする。
どんどんわかり難くなっていくが、未来のじゅん爺ぃに怯えつつ、やっぱり「ゆるキャラ」が同時代としての固有の歴史であり、空威張りしない「カミ」になりうるんじゃないか思っている。ここでいう「ゆるキャラ」とは地方自治体ベースの変てこ着ぐるみのみでなく、それらのモチーフである天狗やなまはげ牛頭天王などの歴史の荒波に耐えた、チャーミングな「カミ」さまたちを指す。ま、彼らは勲章や花瓶をくれたりしないのだけども。
本当にそんな読み方でいいのかわからないが、坪内祐三「同時代も歴史である 一九七九年問題」はサブカルのハナシである。本流のヨーロッパ目線の歴史だけが歴史ヅラするんじゃねぇっという啖呵切りたいが、そのために担保とするのはナンダロウなということか。
大変参考になった。



同時代も歴史である 一九七九年問題
同時代も歴史である 一九七九年問題坪内 祐三

文藝春秋 2006-05
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