野口武彦「長州戦争 幕府瓦解への岐路」
(中公新書 ISBN:4121018400)


ちょっと前にたけしの「TVタックル竹島問題の回を見た。民主党議員が韓国との武力衝突も辞さず!という実に勇ましい強行意見をブチ上げ、ハマコーも困惑をとおりこし多少呆れ気味だったのが印象的だった。
番組のシマイに吐いた、たけしの「じゃ、御勘定っ」も現役の議員が出演しながら本質、居酒屋政談でしかなかっとことを暴露した形で笑った。
今日立ち読みした週刊朝日では、細川という財務事務次官が小渕元総理とよく司馬談議したというハナシが載っていた。
司馬談義とは、司馬遼太郎作品についてアレコレのおしゃべりすることをさすようだ。朝の急いでいた時間で詳しく読まなかったが、瓢箪駒とはいえニッポン国の総理の座にあった小渕が司馬遼作品にどのような感想を持っていたか、誰のどのような活躍に感銘したかはチョット気になった。
というか、司馬遼ファンは政界にも少なからずいるだろうから、今まさにニッポン国を牽引しようという彼らがどのように司馬遼テクストと向き合っているかは「今後の日本を占う」とはいわないまでも、その見識が験されるところであるように思う(マジか?)。
上記の竹島問題に強行意見をのたまう民主党若手議員は幕末に喩えるなら一体どの勢力だろうか。薩摩?長州?土佐?佐幕派
まったくのあて推量でしかないが、あの鼻息から察すれば、当人たちは明治維新の高杉や木戸や坂本竜馬などに自分を投影しているフシがある。大いにある。対抗するは現小泉政権でコレを往時の徳川幕府に見立ててるわけだ。わからんけど。
コレはまったくの夢想である。よくよく考えるなら、幕末のアノ時代の志士の大活躍が政治家を志すきっかけとなりえたにしても、今現在政界にある者が現実政治をまっるきり歴史小説に見立てるような愚はやらかすハズはない。実際現状のニッポンは、少子化、高齢化、慢性的な財政逼迫、近隣諸国との軋轢と日米安保の見直し等など幕末当時ニッポンとは異質の問題を山のように抱えているわけであるから、これを往時と比定するのは素人目にも相当無理があるのも事実である。
ま、そうは言いつつも、やっぱり見立ててみたくなるのも人情っていうか好奇心だろう。
野口武彦の「長州戦争」を読んだ。長州戦争という呼び方は幕府側のそれで、普通歴史の教科書では「長州征伐」、「長州征討」と記される出来事をさす。「長州戦争」とタイトルにしたのは、これを負けた側、幕府サイドから再考してみようという野口の意図表明のようだ。
野口はあとがきにおいて、現在と当時がそんなに簡単に引き比べられるもんじゃないけれど、と断りながら次のように吹いてみせる。
255ページより引用。

筆者はもちろん、幕末内戦と現代を引き比べるような大それた持ち合わせていない。しかしながら、いかなる戦争も<戦訓>という形で後世へのメッセージを残してくれている。パックス・トクガワーナの終末とパックス・トクガワーナの終焉はどこか共通するところがある。もしも歴史的状況を比定できるならば、参戦に自由意志を持たない現在の日本政府立場は、徳川幕府よりもむしろ井伊・高田両藩のような譜代大名に似た微妙な位置にあると考えるのは、果たして筆者の杞憂であろうか。

引用箇所は、野口流のハッタリで間に受けるのはちょっと間抜けだが、ただハッタリにも使いようだと彼は笑っているのだ。史実の注釈に終始しそのダイナミズムを見過ごすなら、歴史の局面局面で死んでいった先人たちは、まったくの無駄死でしかない。
とにかく、歴史を語る、あるいは歴史を振り返るとき、己の環境・境遇を照らし合わせて人は歴史の内に何かしらのメッセージを読んでしまうのだろう。司馬遼太郎が提供した幕末志士に自らをダブらせるか、それともアメリカ幕府の譜代大名に投影するかは、読む側の裁量しだいだろう。その辺のオヤジが竜馬気取りでも差しつかえないが、国の代表が志士気取りではちょっと心配にもなってくる。
歴史とは、学問の対象でもあるが、人生の苦い薬でもある(笑)。



長州戦争―幕府瓦解への岐路
長州戦争―幕府瓦解への岐路野口 武彦

中央公論新社 2006-03
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