○「私のいる場所-新進作家 vol.4 ゼロ年代の写真論」で、みうらじゅんの写真中心にを観てきた
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カメラはちょっと前まで高級品で使いこなすにもそれなりの知識が必要だった。そのため、写真はオジサン族の趣味の要素が強かった。漫画「サザエさん」において、磯野家が行楽地へ出かける際、カメラを首からぶら下げているのはマスオさんや波平であることは、カメラの管理および撮影が大人の男の手の内にあった昭和という時代を反映している。
つまり、家族写真の数々にオジサン族のセンスが刻印されていた時代がかつてあったわけだ。それらは家族写真でない場合、「桜」、「祭」、「富士山」、「夕日」、「路地で遊ぶ子供」などなど日本画画題の花鳥風月並みの被写体に幅のない写真が日本各地で撮られ続けていた。
70年代後半のコンパクトカメラの登場をカワキリに80年代の使い捨てカメラ、そしてデジタルカメラの誕生、カメラ付ケータイの登場とテクノロジーの進歩につれ、カメラはオジサンの手を離れ気軽な道具へと変化した。
同時にそれは被写体の選択を劇的に変容させた。VOW的な奇妙な看板・標識の類、飼っている犬猫にとどまらない野良やド鳩、なんだか応援したくなる新人アイドルを池袋サンシャイン、シティ噴水広場広場で激写等など。
今日観た「私のいる場所」という新人写真展もそうしたカメラのカジュアル化の恩恵をタマモノといえる。社会的な事件やそれを類推させるようなイメージは皆無で、当人にとっては重大な事件なのかもしれないが、俺にとってはどうでもイイ写真がたくさんあった。たた、昭和のオジサン族的花鳥風月なシバリがない分退屈することはなかった。
ジャン=ポール・ブロヘスのアライグマの硬直した死骸の写真やエリナ・ブロテルスのもやもやっとした痛さあふれるセルフポートレート など面白いものもあったが、やはりみうらじゅんの写真が抜群だった。東京写真美術館側からみうらのほうにオファーがったらしいいが、館の意図は、カメラのカジュアル化が了解済みの「いわゆるアート写真」概念にとらわれず、あさっての方角に写真の可能性を開く場合もあるよ、ということだろう。
自分にひきつけて言うなら、被写体=関心事ととらえた場合カメラはこれだけ大衆化したにもかかわらず、シャッターを切る判断に煩悩めいたフィルターが挟まってしまい、ホンマタカシ風や佐内正史風を量産するだけヘマに陥っているの私の写真であり、それは私だけのハナシでなく、写真好きな若い人にありがちな傾向であると思う。
これをデジタル花鳥風と呼ぶとき、若者もオジサンも「自分の写真」を撮り逃がしているという意味では日進月歩のテクノロジーの向上もなんの役にもたってないわけだ。
写真は気軽に撮れるようになったが、シャッターを切る気軽さのなかに「私」でないオッサンがひそんでいる。写真はオッサンとの共同作業であるかもしれない。



参照:
シブヤ経済新聞,「写美で新進作家展−「ゼロ世代」の写真表現を検証」
http://www.shibukei.com/headline/3135/index.html?ref=rss