佐藤弘夫「神国日本」読み中 
ちくま新書 ISBN:4480062955

先日、テレビ東京「テレビチャンピオン」でゆるキャラ選手権を観た。
ゆるキャラとは、みうらじゅんの発明した用語で村・町おこしのシンボルとして日本各地で活躍する手弁当的に製作されたツメのあまいキャラクターのこと。往々にしてそのデザインは公募でなされる。
公募一等に輝いた地元の中学生ヨコテハルカさん(14歳)がハガキに描いたキャラクターは、紙媒体やWebなど平面舞台では大手広告代理がディレクションする大企業のキャラクターと遜色ない愛くるしさを発揮するが、これが着ぐるみなどの立体になった途端、デザイン的な矛盾が野放図に顔を覗かせる。
みうらじゅんは、そんなゆるキャラの予想外フォルムに縄文式土器土偶に匹敵する可能性を見出して喜んでいるのだと思う。
ゆるキャラ選手権のファイナルラウンドは5,6体のキャラによるバトルロイヤル相撲であったが、その格闘の様子は土地土地の神々が覇権を競っているようで、実に変だった。

佐藤弘夫「神国日本」を読んでいる。「神国」って用語を観察してみると、実は古代と中世では用いられ方がっ違ってるし、近世のそれもそれ以前の「神国」とは定義が違うのだというのが佐藤のアプローチ。
古代から平安期においてはアマテラスを中心とした神々の序列が機能したが、摂関家・貴族、武士、寺社などの勢力が荘園を経済的基盤を背景に力を持ちはじめるようになると、天皇家の権力は相対化され、それによって天皇家氏神であるアマテラス頂点の神々の序列も破綻し、おのおのが格上であると論理武装する「神々の下克上」の幕開けとなったという。
中世において神々の覇権闘争に、ある仏教式イデオロギーが重宝された。それが本地垂迹説。

本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9%E8%AA%AC

本地垂迹(ほんちすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

垂迹っていうのは、具現するってくらいの意味か。要するにアマテラスは大日如来の神化した姿であるとか、八幡さんは大菩薩の具現した姿であるという風に、舶来思想である仏教の力を借り、神々はその格の上昇や維持に努めたということ。
また、日本国は彼岸世界の仏が人々を極楽浄土へ導くために神の姿をとって出現するゆえに、その意味において本邦は神の国、神国であると認識されていたと佐藤はいう。
つまり中世日本における「神国」という概念は仏教の世界観・イデオロギー抜きには成立しえない用語で、これが独善的なナショナリズムに即つながるようなものではなく、むしろ日本という国が世界のド田舎(辺境)であるという認識とセットで構成されているとする。
中世「神国」は実はハイブリッドなものだったわけだ。
ところで、かつて日本の神々やそれに類するものは、人の目にみえるような姿はなく、社や山車や神輿などヨリシロに憑くものだったはず。これが大黒天や宇賀神(体はとぐろ巻き蛇で頭は翁)、天狗などビジュアルが鮮明になったのは、仏像という仏教キャラの甚大な影響があったのではないだろうか。筆者の言葉を援用すれば、「神々の下克上」に敗れた神たちは、妖怪変化へ転落の人生(?)を歩んだのかもしれない。

ゆるキャラは大概土地の名物や名所の具現化である。
選手権で競う彼らを懸命に応援するのを各自治体の人たちをブラウン管越しに眺め、やはりゆるキャラは神々の末裔であるという確信を強くした。
彼らは複数の名物・名所イメージを混合がそのデザインの基礎をなしている。実はこれがデザイン的な破綻を招く要因でもあるが、デザイン的統一性よりも村や町の人々が彼らに託した「想い」を優先することが彼らが神々の末裔である証であると思う。そして、本来神はヨリシロに憑く性質であったことを加味すれば、おのずと結論は出よう。
ゆるキャラは、神であると同時に仏でもある。


神国日本神国日本
佐藤 弘夫

筑摩書房 2006-04
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



ゆるキャラ大図鑑
ゆるキャラ大図鑑みうら じゅん

扶桑社 2004-06
売り上げランキング : 24,648

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

関連商品
いやげ物
とんまつりJAPAN―日本全国とんまな祭りガイド
みうらじゅんの伝説のゆるキャラショー
カスハガの世界
ゆるキャラの本