山本七平「一下級将校が見た帝国陸軍」読み中


すこぶる面白い奥泉光「鳥類学者のファンタジア」を中断して、山本七平をいろいろ読み漁っている。どういう点がどの程度、なんという法律に法に触れると判断したのかわからないまま敢行される東京地検ライブドア捜査と捜査進展状況を検察の意のままを翼賛会式に伝えるマスコミの連携プレーを見せ付けられる昨今、山本の日本陸軍体験の冷静な考察が今日的に重要性を増しているように思えてならない。
山本は先の大戦で砲兵隊の少尉としてルソン島で激戦を体験した。「一下級〜」は当時を振り返り、不条理コント全開で戦地で右往左往する日本陸軍を内部から考察したルポ。
日本はアメリカの物量に負けたのではなく、自軍の朝令暮改式の命令によって疲弊し、壊滅したのだと了解した。
現地で出くわした別隊の兵に馬を現地調達したいと尋ねられ、馬などいないとし水牛も代用にならないとその理由を常識的な理屈でこんこんとと相手に説く当時山本があの日本式の戦争においては、逆に非常識に見えて笑いを誘う。上記に不条理コントと記したのも、日本陸軍という組織がわれわれが日ごろ常識と考えていることが全く通用しない異次元のような印象をうけたから。
むろん、戦争は人が死ぬ。敵ばかりか味方もうんと死んだわけだから、不条理コントのようであって、それが現実である点、絶望的に悲惨だった。
自殺(自決)と他殺の中間の死があったと山本は考えているようだ。
「お母さんがかわいそうと思ったら、逃亡だけは絶対に、しないでおくれよ」と兵営に面会にきた母親がいうとき、母親がおびえていたのは軍でなく世間のプレッシャーだっただろう指摘。
つまり、母親が世間のプレッシャーに抗して息子に生きて帰れと言えたなら、自らの体裁がどんなに悪く後ろ指差されようとも、母親のその一言で、死と隣り合わせの環境から生き延びる勇気を選び取れた兵士は多かったのではないか?と山本は言いたいのだろう。

堀田力の「壁を破って進め(上・下)」を読んだ際、当時の、角栄許すまじ!という世論的高まりを東京地検が最大に利用した、というか、後ろ盾にしたような印象を抱き、気になった。
悪党は悪党だから退治しなかればならないとするのは、法のレベルの問題ではない。議会制民主主義なら選挙で問うべきだし、また社会道徳的に裁くという方法もあるだろう。これらの裁きのレベルはそれぞれが別次元であり、検察に法の執行とそれらを混在することは、法治国家としての国の根幹にダメージを与えることにしかならない。だから、検察は厳格に法の遵守する手続き踏まえ起訴や裁判に臨むべきである。また、報道機関の役割は権力機関側の越権行為・権力の恣意的濫用に目を光らせるチェック機能であると思う。
世間という組織。これには刑法のような明文化された法をもたないが、不文律めいたもの、あるいはタブーが確実に存在する。
しかしながら、権力もそれを見張る側もそういう風には動いていないようだ。ひょっとすると、日本という国家は法治国家報道の自由は謳っていながら、それらは建前でその建前は世間という土俵に載っかっているのかもしれない。
国柄という変な言葉がふと浮かぶ。じつは世間治主義がこの国の根幹、国柄と呼べるかもしれない。ただ、先の戦争であった自殺と他殺の間の死。それで多くの日本兵が命を落としたこと、そしてそれが親の口から「逃げて帰るな」といわせる世間の機能に由来するだろう、とそれに直面した、生き残り兵が口にするとき、明記された法のありがたみとそれを遵守する勇気の価値が、なにものにも代えがたい社会の仕組みであることが痛感されるのではないか。



一下級将校の見た帝国陸軍
一下級将校の見た帝国陸軍山本 七平

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