○増井経夫「大清帝国」( IISBN:4061595261)読み中


鎖国時代、海外へ開かれた窓は長崎で、お隣中国の情勢もそこからもたらされたよう。
当時長崎で収集された海外情報が編纂されたものとして「華夷変態」、「岬港商説」、「通行一覧」や「阿蘭陀風説書」などがあった。しかし、民間の情報への信頼性が低かったため、「華夷変態」には中国では抹殺されている呉三桂の檄文も残されてるのにもかかわらず、うちやられていたという。
つまり、海外の風説が耳に入ってくる現場に蓄積された文書は国家外交に調度されることなく、ただただ現場の商取引における環境事項としての低いレベルの利用にとどまっていたということだろう。
47ページより引用。

昔、中国の為政者は流行する童謡に世の前兆を認めようとしたが、大げさにいれば、風聞が歴史の原型だったのである。ただ、これは、なまのまま読み取るのではなくて、いくつかのスクリーンにかけなければならなかった。この手間を厭うために、命令を出し、命令が行われるその跡だけを追いかけるのが普通の歴史観となってしまっている。

西太后」を読んだ際、西太后の背景に紀元前から蓄積、洗練された中華伝統の官僚組織と運用制度を感じた。
征服王朝はまず武力によって興るけれども、その維持においては、法に従って運転される。それを中国歴代の政権はじゅんぐりに継承し、今日の中国共産党に至ったのだと感じだ。
話しが横道にそれたが、法に則った政治運営というのは官僚によるもの、膨大な文書による政治が運転されるシステムを意味するはず。したがって、後の世の歴史家は、これを粒さに読み解けが当時政権がいかなる課題に取り組んでいて、それにどうのような解決策をこうじたかが判ると考えるのはそう筋が悪いわけではない。ただ、それのみでは限界があり、取りこぼすがあるということ。
たとえば、上記したように三班の乱の立役者の一人呉三桂の檄文は、歴史から抹殺され「ないこと」になっているのだ。
山根幸雄という人の「あとがき」を読むと、増井は戦前ブイビイ言わせていた考証史学的手法(増井風にいうなら命令を出し、命令が行われるその跡だけを追いかけるのが普通の歴史観)に与しなかったため、冷遇されていた旨を書いている。
上記引用箇所が冷静沈着な文章家の印象のある増井にしては、皮肉が噴射しているように見えるところだ。
おそらく、金沢大で教鞭をとっているとき、時折とびだした増井の「すべらない」ジョークで、増井の聡明さに接した当時の学生に案外ウケたのではないか。それを文章におこすと、皮肉が勝ってしまったという按配で、当人にその意図は薄いかもしれない。
ただ、もう少し妄想たくましくすれば、「大清帝国」において、太平天国に大きく割くのは、太平天国を扱うことが考証学的アプローチでは行き詰まりを引き起こしていたゆえ、一矢報いるつもりだったかもしれないとは思う。
増井のそれは、カルロ・ギンズブルクが盛んにまくし立てる俺節的史学のアプローチを彷彿するとまでは言わないが、私のようなずぶの素人にはそこに歴史家増井経の分別発露を見る。



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