○近代人のなやみと糧


私見ではテクノとは、徹底的に近代の上に、つるつるの盤上に普遍を築こうとすする意志と理解する(ホンマかいな)。ゆえにデトロイトテクノなどとという看板は「ミュージックマガジン」界隈では符丁としてアリかもしれないが、「黒いシロクマ」と言っているに等しく、実質矛盾でしかない。
この夏ラジオでよく耳にする琉球ディスコに対して私はことさら意地悪をいうつもりは毛頭ない。が、琉球民謡をあしらった彼らのスタイルは「テクノ」ではなく、「ワールドミュージック」と呼ぶべきだと思う。
こうしたジャンル定義は、「いきいき」とした音楽ライフを窒息させるという意見もあると思うが、我々がいまある近代とは、ちっとも「いきいき」とせず、河童も、天狗も、ヒバゴンも、全部ウソ、フィクションじゃ!の不文律のことだから、安易にラブワゴンで相乗りなんかするのはつつしむべきだ。なるべく。
けれど、そうだからと言って天狗が羽をもがれたわけでも、河童が皿を割られたわけでもない。
近代人は「いきいき」も「わくわく」もしないゆえに、バラバラのガラクタをあーだこーだとチューニングした大法螺吹き、隣人の法螺の出来具合に心を揺さぶられたりするのだ。
モダン法螺という造語を思いついた。
上記の意味において、京極夏彦の一連の作品はこの範疇にある。


エッフェル塔試論
4480085416松浦 寿輝

筑摩書房 2000-02
売り上げランキング : 367,218

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

近代を考察したエッセーといえば、コレか。


サバービアの憂鬱?アメリカン・ファミリーの光と影
4487752795大場 正明

東京書籍 1993-11
売り上げランキング : 1,539,302

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

郊外論と読まれるより、驀進する「近代」のレポートと読むべきか。