○「グロテスクな教養」読み中
(ちくま新書 ISBN:4480062394)

「グロテスクな教養」において、日本的教養主義は「モテ」というキーワードで観察される。
その前提として、教養はエリート集団の僕は単なる受験秀才ではない!という気負いに発端するという。
つまり、受験戦争に勝ち抜いたあと、更なる切磋琢磨が待っているということ。そのステージこそが日本的教養主義の正体であるようだ。
日本的教養主義は、受験戦争の勝ち残り(エリート?)の更なる選別装置というの成り立ちゆえに、学内における専門的研鑽業績には甚だ冷淡にならざるをえない。一方、学外に積極的に「教養の泉」発見し、エリート諸君をそれに誘導するように機能する。
端的に言えば、「教養」は、わくわくする世間に遍在しているわけだ。
これは、演芸界隈のいわゆる「飲む・打つ・買う」を彷彿させる理屈である。噺家としての道を精進するためにも「社会勉強」は大切であるという説法である。我々演芸関係者でないものは、この論法を笑ってしまうが、一方で内田樹合気道バナシや東浩紀のインターネットバナシに含蓄をみてしまう。あるいは谷沢永一の司馬遼礼賛もその意味において日本的教養主義の典型といえるだろう。
つまり出版ジャーナリズムは、アカデミック界隈の人を学外に繋げる役割を果たしいる。
むろん版元は学者と付き合う際彼らの要望にも応えなければならいから、学内における業績(論文)の出版にも手を貸すが、これはサービスであり本筋ではない。
出版ジャーナリズムはあくまでアカデミック界隈の人々が業績と無縁な学外的な非・専門的な事柄について語ることを願っている。
別の言い方をすれば、アカデミック界隈の人々の「モテ」は、出版ジャーナリズムを通じた市場の評価を意味する。
今出版ジャーナリズムが頭を抱える問題は、アカデミック界隈の人々の「教養」ある意見に神通力が薄まっていることだ。
高田は、大衆化したエリートの出現によって、「教養」の受け皿であるはずの大衆も消えたと指摘している。
女の立場における結婚、婿選びという文脈における「教養」男の衰亡も、大衆側にいた女が大衆化したエリート側に回ったためだと高田をダメ押しに言っている。


グロテスクな教養
高田 里惠子

4480062394

by G-Tools