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○高田里恵子「グロテスクな教養」読み中
(ちくま新書 ISBN:4480062394)
12ページより引用。
立花隆が、現代の教養はバイオテクノロジーと英語とメディア・リタラシーだと喧伝し、「経済学という教養」(稲葉紳一郎)「教養としてのまんが・アニメ」(大塚英志)「死ぬための教養」(嵐山光三郎)「教養としての大学受験国語」(石原千秋)といった書名があるのは。教養にまとわりついてる人文学の雰囲気を利用して、一種の異化効果を狙おうとしているのだろううか。
(中略)
つまり教養はきわめて便利な言葉であり、そのせいで、教養にも教養主義(教養を身につけるこために、がんばることと、とりあえず言っておく)にも、すでにさまざまなかたちで死亡宣告がなれているのにもかかわらず、なんでも盛りこめる教養論はなかなか滅びない。
教養死すとも、教養論死せず。
というわけで、われわれが見ていこうとするのは、教養そのものではなく、教養についての言説である。
近刊情報をみた際、小谷野敦「もてない男」のような孤独な大衆をテーマにしているかと想像したが、仲正昌樹「「不自由」論」に相通じるテーマを別の視点ー日本のエリート教育における「教養」の変遷から、頑固に変わらない日本的教養の思考様式を抽出するーから眺めてみたという感じ。
ふと頭に浮かんだのは柘植俊一 「反秀才論」。
柘植が相撲を真剣に教養の一つと数えている点が風変わりだが、痛快な一冊。おそれらく、それは旧制高校風な教養の剛毅を尊ぶ精神の表れなわけだが、私が多いに笑ったのは、半分はそのアナクロさ加減であり、半分は私の知らない旧制高校教養へ「懐かしさ」のせいだったと思う。
「グロテスクな教養」において、高田は日本的教養論は、僕は単なる受験秀才じゃない!というエリートの心情から発露されていると指摘している。つまり相撲を教養にカウントする柘植の「反秀才論」はその典型というものなわけだ。
高田は「あとがき」で、担当編集部の伊藤大五郎氏から、一冊くらい「いやーな気持ちになる」ような新書があってもいいでしょう、と励ましをもらったと記している。確かに、本書にちりばめられた悪意ある言い回しやものの眺め方は、高田が本書に託した願いとは裏腹に(?)「いやーな気持ち」にさせてくれる。
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